■故郷金沢の「M&A」
8/9の北国新聞2面。"ホクチン「のざき」買収"の大見出し。
地元優良企業ホクチンが、焼き魚製造販売の「のざき」を買収するという。
野崎社長(64歳)とは、某経営者団体での付き合い。
後継者がいないため、ホクチンは全株式を買取り、25名の従業員・取引先・のれんを、丸ごと引き継ぐことになった。
「のざき」は金沢の近江町市場に店舗を構え、「のざきの焼き魚」のブランドで、水産加工品の製造販売を行っている。
年商は約5億円。近年増収増益で、事業は好調。
企業価値が高い今、好条件で会社を売却することに…。
石川県が、県内の企業にアンケートしたところ、約半数の企業に後継者がなく、会社を引き継ぐ社員がいない。
自分の代で会社を閉じることになると回答している。
少子化が後継者難を引き起こしているのです。
私の親戚の会社も、十年ほど前、取引先の大手企業に会社を丸ごと売却した。
その数年後、同業者の多くが不況による競争の激化で、廃業に追い込まれている。
企業価値が高い間に買い手を捜し、会社を手放す…そんな時代になったようです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 189】
~歴史から学ぶ~ 「香林坊栄枯盛衰」
私は香林坊生まれ。
昭和63年、現在の場所に引っ越すまで、47年間香林坊が変貌していく姿を見てきた。
昭和30年、当時約140世帯が軒を連ね、商店、飲食店、スナック、キャバレー、ダンスホールなど、商店街は昼も夜も活気に溢れていた。
日本刀の伊藤刀店とか、漢方薬の"へびそ"が懐かしい。
マムシが、店先に置かれたビンの中で、何匹もとぐろを巻いていた。
"仙宝閣"があり、香林坊交差点の料亭"魚畔"には、金沢初のエレベーターがあった。
洋菓子喫茶のオリヤンタル、多田万年筆店など、名の知れたお店が軒を並べていた。
昭和34年4月、皇太子殿下と美智子妃のご結婚パレードが、全国に放映されることになり、テレビが一気に普及し始めた。
私の家の隣に、民放MROがテレビ普及のためのショールームを開設。
大相撲放映の時などは、山のような人垣が出来て、その時の声援が、今も耳に残っている。
昭和35年以降、国道拡張に伴う再開発で、店舗付き住宅ビルが、アーケードを連ねるようになった。
その後、東急109やホテル、大手銀行・生保が次々と進出してきて、街並みは金融・オフイス街へと衣替え。
その後、大和デパートが移転してきて、ほぼ開発が終了した。
街区が近代化されるたびに、長年親しんできたお店が、どこかへ引っ越していった。
香林坊のピークは、昭和35~40年の頃。
バーゲンセールでは、私の父の店にも動きが取れないくらい、お客様が殺到した。
大手のスーパー、ほてい屋(ユニー)、長崎屋が相次いで片町に進出し、県内外の有名店が競って、片町・香林坊に出店した41年以降、
隣の片町商店街に客足が移り、競争の激化で、父の店の来店者数は減っていった。
■商店街から、金融・オフィス街に変貌した、昭和48年当時の香林
[道路左側]
三菱銀行、加州相互銀行、私の住いがあるビルと続き、隣の日本勧業銀行がかすかに写っている。その奥の茶色のビルは、
ニューグランドホテル。
[道路右側]
新築間もない、農林中央金庫と共栄火災海上のビルが写り、その奥は建設中の千代田生命ビル。
北陸随一の繁華街、香林坊の地価がピークに達したのは、バブル崩壊後の 1992年。
その年の最高路線価は、大和隣の"いちの谷カバン店"で、3.3平方メートル1,472万円。
1989年のバブル絶頂期、2千万円だった片山津ゴルフ会員権が、7千万円に高騰。
いかにバブルが凄まじかったか…平均株価が3万6千円に跳ね上がり、国中が舞い上っていた頃です。
北陸一を誇った商店街も、バブルがはじけた後、郊外に次々進出する大型ショッピングセンターに顧客を取られ、
繁華街の象徴だった映画館街(11館)の灯も、一つ消え、二つ消え、今はゼロ。
現在香林坊に居住を構えるのは、コンビニを営む I さん一世帯のみ…。
その I さんは、明治に石川県最初の自転車店として、その名を知られている。
繁華街周辺は、若い世帯が郊外に移住して、年寄りばかりの空き地と駐車場がやたら目立つ、寂しい街になってしまった。
香林坊の寂びれようは、大手銀行、デパート、ホテル、商店の整理・淘汰の嵐となって、北陸銀行香林坊支店の撤退に始まり、 農林中央金庫は閉鎖・売却、倒産した石川銀行跡地には高層マンションが建ち、第一勧銀跡には、東横インがこの10月にオープンする。
8月2日、国税局が今年の路線価を発表した。
香林坊は3.3平方メートル182万円。地価はようやく下げ止まったが、‘92年当時の8分の1以下…
28年前の水準にまで落ち込んでいる。
8/2北国新聞「石川の路線価」より