■原爆のニックネーム
1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が落とされた。
ニックネームは"リトルボーイ"。
その日、広島に飛来したB-29エノラ・ゲイから投下され、原爆ドームの上空580メートルに降下して爆発した。
爆発を見た人は、「空にもう一つの太陽が現れたようだった」と語った。
リトルボーイから発した光と熱は、凄まじいエネルギーの爆風と熱線になって、半径2キロにあるものすべてを焼き尽くした。
山にぶつかって反射した爆風が、再び市の中心部の人たちを襲った。
そして約20万人が亡くなった。
その3日後、2つ目の原爆が長崎に落とされた。
ニックネームは"ファットマン"。
発生したエネルギーは、リトルボーイより大きかったが、山に囲まれた地形が、被害者を7万人程度にとどめた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 186】
~歴史から学ぶ~ 「原爆は戦争終結には必要なかった」
誰もが、もはや「日本が勝つ」とは思わなくなった、昭和20年7月。
日本の軍隊は武器もなく、南の島や密林に飢えと病気でちりぢりになり、石油を失った艦隊は、島影に隠れて動けず、全国の主要都市は、
焼夷弾の炎に焼き尽くされようとしていた。
しかし、日本の軍部は、戦争を止める術を知らない…。
アメリカの大統領は知っていた。
ソ連が不可侵条約を破棄して、日本に参戦しようとしていることを…。
日本の降伏は時間の問題だということを…。
戦勝国側は、誰もがそう思っていた。そんな中、米露の冷戦は進んでいた。
ソ連の参戦は間近か…その日までに、日本を叩きつぶしておかなければならない。
7月16日、ニューメキシコで原爆実験に成功。ソ連参戦まで時間がない!
既にベルリンに赤旗が上った。投下を急がなければ…米軍部は焦った。
原爆投下は、「米軍が本土上陸作戦の際に見込まれる多大な犠牲を回避し、戦争を早く終わらせるための、やむを得ない手段」と、
当時の軍部が米政府に進言していた。
実際、米政府内の意見は違っていた。
「原爆を投下しなくても日本は降伏する」「時間の問題である」との意見が大多数を占めていた。
原爆投下は、やむを得ない最後の手段ではなかった。
人類最初の原爆は、ソ連と米国が、世界戦略の野望を推し進めることを目的に、日本民族の上に閃光一閃投下され、
40万人もの市民の命を奪うことになった。
覇権国どうしの、政治的野望を満たすために、殺されたといってよいでしょう。
敗戦国日本は、非戦闘員の大量虐殺という事実に、許しがたい怒りを持ちつつも、それに抗議することがはばかられ、黙り込んだ…。
~下関原爆展のパネル集から~
7月初旬、広島・長崎への原爆投下を、「しょうがなかった」と発言した久間防衛相。
責任を取って辞任するという、人騒がせな事件が起きた。
日本は、「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を堅持し、核兵器の全面的廃絶を、国連を通して訴え続けてきた国。
その日本の防衛長官が米国の原爆投下を容認したのでは、核廃絶を世界に訴える日本の立場がない。
説得力を失い、国際社会に少なからぬマイナスイメージを与えた。
■1945年、原爆投下直前の証言
○ | 「スチムソン」 アメリカ陸軍長官・原爆投下作戦責任者 |
「原爆投下の目的は、満州に進攻しはじめたロシアが、日本本土に到達する前に、 できるだけ早く降伏を実現させることにある」 | |
・戦後数年して… | |
「原爆を投下しなかったら、日本の降伏が遅れ、その間にロシアが北海道に上陸し、 朝鮮やドイツのような分断国家になっていただろう…」 | |
○ | 「トルーマン」 アメリカ大統領 |
・1945年7月17日ポツダム会議初日 | |
「ソ連が参戦すれば、日本はお手あげだ」 | |
・翌18日、原爆実験成功の電文を受け取り… | |
「原爆を投下すれば、ロシアがやってくる前に、日本はお手あげだ | |
○ | 「マッカーサー」 アメリカ極東軍最高司令官 |
「私の幕僚たちは一致して、日本は崩壊と降伏寸前の状態にあると判断している。原爆投下は軍事的に見れば、 まったく不必要である。日本は降伏を準備している」 |