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2007年08月 アーカイブ

2007年08月07日

孔子の教え(9)教育とは…

■素読のすすめ

七月、福井で開催されたミネハハ・ コンサートに出かけた折、川人さんのご家族にお逢いした。川人さんといえば、毎朝ご家族そろって正座し、 論語の素読を続けて来られたことで
知られる。
当時まだ幼稚園児だった長男、先月お逢いした時は小学校3年生になっていた。
長男は、論語を暗唱しているという。
私がおねだりをしたら、みんなの前でお経を読むように、披露してくれた…。
学問は6歳から、まずやさしい平仮名を教え、それから漢字を教えるといった、現代の幼児教育の常識は間違いであることを、気づかせてくれる。

江戸時代、寺子屋や藩校で、農民の子も武家の子も論語を学び、手習いをした。
今の時代、大人も読み辛い難解な漢字が並ぶ四書(論語・大学・中庸・孟子)を、当時の子どもたちは、ごく普通に学んでいたのです。


【心と体の健康情報 - 305】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(9)教育とは…」

以下、PHP 「リーダーのための中国古典・論語」からの引用です。
孔子は晩年、もっぱら弟子の教育に力を注いだが、教育ということについて、こんな意味のことを語っている。

「子曰く 憤せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げて 三隅を以って反(かえ)らざれば 則(すなわ)ち復(また)せざるなり」 

(述而第七)

  • 自分の力で、今一歩というところまで来て、もたもたしている。
    そういう相手でなければヒントを与えてやらない。
  • 言いたいことは頭にあるのだが、うまく言えないでもどかしがっている。
    そういう相手でなければ、助け舟は出してやらない。
  • 一つ例を示してやると、直ちに類推を働かせて、ピンと応ずるのでなかったら、
    それ以上の指導は差し控える他はない。

つまり教育というのは、本人の「自発性」、「求める気持ち」が大切なのだと、言っているのです。実は、 その気持ちを人一倍持っていたのが、孔子その人だったのです。
恵まれない暮しの中にあって、苦しさにくじけることなく、絶えず前向きの姿勢を貫き、自己啓発を怠らなかった… これが孔子の生き方なのです。

孔子は強い人間でしたが、強いだけの人かというと、決してそうではなかった。
強さ・厳しさの中に、何ともいえない暖かさを持っていたようです。
孔子の人間像について、弟子達がこんな風に語っている。

人柄は温和であって、しかも厳格である。
威厳を備えながらも、威圧感がなく、
礼儀正しくて、しかも窮屈を感じさせなかった。
遠くから見ると、近づきがたい威厳がある。
親しく接してみると、その人柄の温かさが伝わってくる。
更に言葉をかみ締めると、その言葉の厳しさが分かってくる。

いかにもバランスの取れた人間像が浮かんでくる。
孔子という人はまた、どんな境遇に置かれても、人生を楽しむ術を心得ていたようです。

2007年08月10日

原爆は戦争終結には必要なかった

■原爆のニックネーム

1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が落とされた。
ニックネームは"リトルボーイ"。
その日、広島に飛来したB-29エノラ・ゲイから投下され、原爆ドームの上空580メートルに降下して爆発した。

爆発を見た人は、「空にもう一つの太陽が現れたようだった」と語った。
リトルボーイから発した光と熱は、凄まじいエネルギーの爆風と熱線になって、半径2キロにあるものすべてを焼き尽くした。
山にぶつかって反射した爆風が、再び市の中心部の人たちを襲った。
そして約20万人が亡くなった。

その3日後、2つ目の原爆が長崎に落とされた。
ニックネームは"ファットマン"。
発生したエネルギーは、リトルボーイより大きかったが、山に囲まれた地形が、被害者を7万人程度にとどめた。



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 186】
~歴史から学ぶ~ 「原爆は戦争終結には必要なかった」

誰もが、もはや「日本が勝つ」とは思わなくなった、昭和20年7月。
日本の軍隊は武器もなく、南の島や密林に飢えと病気でちりぢりになり、石油を失った艦隊は、島影に隠れて動けず、全国の主要都市は、 焼夷弾の炎に焼き尽くされようとしていた。
しかし、日本の軍部は、戦争を止める術を知らない…。

アメリカの大統領は知っていた。
ソ連が不可侵条約を破棄して、日本に参戦しようとしていることを…。
日本の降伏は時間の問題だということを…。
戦勝国側は、誰もがそう思っていた。そんな中、米露の冷戦は進んでいた。
ソ連の参戦は間近か…その日までに、日本を叩きつぶしておかなければならない。
7月16日、ニューメキシコで原爆実験に成功。ソ連参戦まで時間がない!
既にベルリンに赤旗が上った。投下を急がなければ…米軍部は焦った。

原爆投下は、「米軍が本土上陸作戦の際に見込まれる多大な犠牲を回避し、戦争を早く終わらせるための、やむを得ない手段」と、 当時の軍部が米政府に進言していた。
実際、米政府内の意見は違っていた。
「原爆を投下しなくても日本は降伏する」「時間の問題である」との意見が大多数を占めていた。

原爆投下は、やむを得ない最後の手段ではなかった。
人類最初の原爆は、ソ連と米国が、世界戦略の野望を推し進めることを目的に、日本民族の上に閃光一閃投下され、 40万人もの市民の命を奪うことになった。
覇権国どうしの、政治的野望を満たすために、殺されたといってよいでしょう。
敗戦国日本は、非戦闘員の大量虐殺という事実に、許しがたい怒りを持ちつつも、それに抗議することがはばかられ、黙り込んだ…。

~下関原爆展のパネル集から~

7月初旬、広島・長崎への原爆投下を、「しょうがなかった」と発言した久間防衛相。
責任を取って辞任するという、人騒がせな事件が起きた。

日本は、「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を堅持し、核兵器の全面的廃絶を、国連を通して訴え続けてきた国。
その日本の防衛長官が米国の原爆投下を容認したのでは、核廃絶を世界に訴える日本の立場がない。
説得力を失い、国際社会に少なからぬマイナスイメージを与えた。

■1945年、原爆投下直前の証言

「スチムソン」 アメリカ陸軍長官・原爆投下作戦責任者
  「原爆投下の目的は、満州に進攻しはじめたロシアが、日本本土に到達する前に、 できるだけ早く降伏を実現させることにある」
  ・戦後数年して…
  「原爆を投下しなかったら、日本の降伏が遅れ、その間にロシアが北海道に上陸し、 朝鮮やドイツのような分断国家になっていただろう…」
   
「トルーマン」 アメリカ大統領
  ・1945年7月17日ポツダム会議初日
  「ソ連が参戦すれば、日本はお手あげだ」
  ・翌18日、原爆実験成功の電文を受け取り…
  「原爆を投下すれば、ロシアがやってくる前に、日本はお手あげだ
   
「マッカーサー」 アメリカ極東軍最高司令官
  「私の幕僚たちは一致して、日本は崩壊と降伏寸前の状態にあると判断している。原爆投下は軍事的に見れば、 まったく不必要である。日本は降伏を準備している」

2007年08月17日

玉音放送までの24時間

■8月14日深夜11時「詔書」が発布され、無条件降伏受諾。

8/9日以降、降伏すべきか否かで、議論に議論を重ねてきた、鈴木内閣の閣僚たち。
疲労と心労が一度に噴出し、ほとんど虚脱状態に近かった。
その頭の中で、にぶい様々な思いが去来して交錯。
ある者は、日本建国以来初めて経験する敗北を思い、ある者は、和平終戦に持ち込めなかったことを悔やんだ。

原爆が各都市を次々と破壊していく。
九州の薩摩半島と、関東の九十九里浜へ殺到する100万の連合軍艦隊。
北方にはソ連。いや、ソ連は朝鮮半島を一気に南下し、九州や中国地方へ迫ろうとしている。
受諾が一日遅れたら、日本は各所で分断され、男も女も、子供も老人も、砲火と硝煙の中で倒れ、 日本列島は8,000万の累々たる死の島になるだろう…。

これらの曖昧無辜(あいまいむこ)とした思いも、ポツダム宣言を受諾するまでの肉体的疲労感には勝てず、ともすれば薄らぎ、 最後に残る感慨は、誰しも皆一様に同じだった。
疲れた、長い日だった。本当に長い一日だった。その長い日が、今やっと終わった。

映画「日本の一番長い日」 より


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 187】
~歴史から学ぶ~
「玉音放送までの24時間」

7/28、鈴木貫太郎首相、連合国のポツダム宣言を黙殺すると言明したため、米国はそれを口実に広島と長崎に原爆を投下。
ソ連の参戦の後、昭和20年8月14日午前10時50分、鈴木貫太郎首相以下御前会議が開かれ、 天皇陛下のご裁断による"終戦の大詔"が発せられ、ポツダム宣言が受諾された。

直ちに詔書作成のための閣議が開かれ、有識者の安岡正篤や外務省の意見をもとに、814字の詔書がその日のうちに作られ、 深夜11時発布された。
直ちにスイスとスウェーデンを通して、連合国側に受諾する旨通達された。

8/14「官報 号外」

「ようやく、長い一日が終わったと思ったのは間違いだった。そこから更に長い一日の始まりだった」

映画「日本の一番長い日」より

受諾決定を国民に知らせるため、14日夜9時「15日正午、重大発表があります」と、全国にラジオ放送された。
15日朝には、それが天皇自らの放送であり、「正午には必ず、国民はこれを聴くように」との注意が、重ねて流された。
また15日の朝刊は、放送終了後の午後に配達するよう、特別措置が採られた。

ポツダム宣言受諾決定を知らされた陸軍の一部は、徹底抗戦を唱え、翌日放送のため宮内省に保管されている録音レコード盤を、 クーデターにより奪取しようと、計画を練っていた。
録音作業は14日夜半、詔書発布直後の11時20分頃から始められ、2回のテイクにより、玉音盤は合計2種4枚製作された。 翌15日午前1時頃無事終了。

敗戦の混乱が皇居に及ぶことを憂慮した東宮侍従は、急ぎ、幼い明仁親王(今上天皇)の手を引いて、密かに皇居から避難。
陸軍の皇居警護をかいくぐり、宮中から脱出。
追跡の及ばない場所へ逃れ、玉音放送に備えた。

15日早朝、玉音放送の準備を終えた録音技師が、宮内省から退出するところを、陸軍幹部将校ら7人が指揮する近衛師団兵卒が拘束。
武力をもって宮内省を占領…建物内に押し入って、玉音盤の捜索を行った。

計画では、昭和天皇を殺害し、幼い明仁皇太子を新たに擁立し、戦争続行を企てようというもの。
首謀者は、陸軍省軍務局員"畑中健二"少佐と"椎崎二郎"中佐で、近衛師団長"森赳"中将にクーデターへの参加を断られると、 中将を殺害して、虚偽の動員命令を発し、行動を起こした。

2時間近く、宮内省を必死に捜索したが、目当ての「玉音盤」は発見できなかった。
軍部の一部に不穏な動きがあることを察知した政府は、玉音盤を女官の控え室に隠して、間一髪難を逃れた。
そこで反乱部隊は、放送会館を武力占拠して、玉音放送を阻止しようと試みた。が、15日未明、 第12方面軍司令官"田中静壱"大将が状況を察知し、自ら反乱部隊に出向き、説得。
首謀者が自決して、事件は収拾した。

更に、15日午前11時にも、放送を中止させようと、憲兵が放送会館に乱入する事件が起きたが、取り押さえられた。

この貴重な玉音盤は、戦後しばらく所在不明になった。
歴史ドキュメンタリー番組などで耳にする玉音放送の声は、たまたま、日本放送協会の技師が録音テープにダビングしていたものを、 再生したものです。
その後原盤が発見され、NHK放送博物館に、窒素ガスを充填したケースに入れられ、厳密な温度・湿度管理され、保管・展示されている。
ただ、保存状態が悪かったため、昭和天皇の肉声の再現は困難だという。

■「ポツダム宣言」

連合国首脳が、太平洋戦争終結条件と戦後処理の方針を定めたもの。

  • 1.日本軍国主義の駆逐と、軍国主義指導者の永久除去
  • 2.平和と秩序が建設されるまで、連合国による日本占領
  • 3.日本国の主権は、本州、北海道、九州、四国及び、連合国が定める
      諸小島への制限
  • 4.日本国軍隊の完全武装解除と、兵士の復員
  • 5.戦争犯罪人の処罰と、日本国内における言論・宗教・思想の自由、
      及び基本的人権の尊重
  • 6.軍需生産の禁止
  • 7.前記諸目的が達成され、日本国民の自由意志による平和的政府が
      樹立された後における、占領軍の撤退
  • 8.日本国軍隊の無条件降伏

2007年08月24日

大東亜戦争終戦の詔書

■捕虜になることは恥 「日本に帰れぬ」と覚悟

サイパンで、ガタルカナルで、硫黄島で、兵力では比較にならないくらい貧弱な日本兵が、「バンザイ突撃」をして玉砕した。
最後には、手榴弾を米兵にではなく、自分の胸に叩きつけて集団自決した。
「捕虜になることは、日本軍人の恥辱」、「捕虜になったら殺される」と信じ込み、「自決した方が潔い」と、誰もが己の最後を決めていた。

捕虜になった日本兵、「もう日本におめおめ帰れない」とおびえ、「死んだ方がいい、生きる理由があるのか?」と、本気で悩んだ。
米軍から服や食事を与えられ、不思議に思ったという。

8/15中日新聞「国の洗脳 怖さ痛感」より抜粋

「この戦争は間違っている」、「この戦争は負けだ」と、本音を言おうものなら、袋叩きの目に合い、憲兵がやって来る。当時の国民は皆、 日本が勝つと信じ込んでいたのです。
戦後60年を経た今、「何であんな戦争をしたのだろう…」と思う。
結論を言えば、「日本人は何も知らなすぎた」ということでしょう。
アメリカという国を…国力を知っていたなら、戦争をしても、頃合いを見て鉾を収めただろう。
今の北朝鮮の綱渡り外交、そして、目や耳を塞がれた北朝鮮の人達を見ていると、つくづくそう思うのです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 188】
~歴史から学ぶ~
「大東亜戦争終戦の詔書」

終戦詔書は、天皇の肉声を録音。ラジオを通して正午に放送開始。
「玉音放送」を流し、全国民に降伏が告げられた。
詔書放送に先立ち、全員起立を求めるアナウンスがあり、続いてNHK総裁が、天皇自らの勅語朗読であることを説明。君が代演奏の後、 勅語放送。
再度君が代が演奏され終了した。

以下は「終戦ノ詔書」の全文です。
日本の降伏宣言であり、新生日本が産声を上げる瞬間です。
私たちは、その全文の意味を理解し、永遠の平和国家を願った、この玉音放送を忘れることなく、終戦を迎えた人たちの念いや意思を、 後世に受け継いでいかなければなりません。

朕深く世界の体勢と帝国の現状とにかんがみ、非常の措置を以って時局を収拾せむと欲し、ここに忠良なる汝 (なんじ)臣民に告ぐ。

朕は帝国政府をして、米英支(中国)露・四国に対し、其のポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
そもそも帝国国民の康寧(こうねい)を図り、万邦共栄の楽しみを供にするは、皇祖皇宗の遺範にして、 朕のに拳々おかざる所、先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自在と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、 出て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、もとより朕が志にあらず。

然るに交戦すでに四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、 各々最善を盡尽くせるにかかわらず、戦局、必ずしも好転せず、世界の体勢、また我に利あらず。

しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所、 まことに測るべからざるに至る。しかも尚交戦を継続せんか。
ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。
かくの如くは、朕、何を以ってか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。
これ朕が帝国政府をして、共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。

朕は帝国と共に、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず、帝国臣民にして、 戦陣に死し、職域に殉じ、非命に倒れたる者、及び其の遺族に想いを致せば、五内(ごだい)為に裂く。
且つ戦傷を負い、災禍をこおむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕に深く軫念(しんねん)する所なり。
おもうに今後、帝国に受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。
汝臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕、善く之を知る。
然れども、朕は時運のおもむく所堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かんと欲す。

朕はここに、国体を護持し得て、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共に在り、 若しそれ情の激する所、みだりに事端をしげくし、或は同胞排擠(はいせい)互いに時局をみだり、為に大道を誤り、 信義を世界に失うが如きは、朕、最も之を戒む。

宣しく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、 道義を篤くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
汝臣民、其れよく朕が意を体せよ。

御名御璽(ぎょめいぎょじ)
昭和二十年八月十四日

放送は、玉音盤と呼ばれるセルロース製レコードによる録音で、ラジオの音質が極めて劣悪な上、天皇の朗読に独特の節回しがあり、 また詔書の難解な言い回しが重なって、意味を理解しないまま聞き終えた人が多かった。

玉音放送の後、アナウンサーの補足解説で、ようやく事情を呑みこむことができた。
天皇の声が電波に乗って国民に放送されたのは、これが最初。
国民は、天皇の声を聴くのは初めてで、朗読の節回しと、声の高さに驚いた。

玉音放送を聴いて涙する人、放心する人、喜ぶ人もいれば、自ら命を絶つ人もいた。
アジア各地に展開していた数百万の将兵が、一斉に矛を下ろし、徹底抗戦を唱える者もいたが、暴動・暴走に走ることもなく、 平穏に終戦を迎えることができた。
これは、欧米の戦争では考えられないことで、当時の日本人のあり様がわかる、歴史の一幕です。

2007年08月28日

子育ては妻まかせ

■母娘は、親密な共生関係

友達のように親しい母・娘の関係…。
近年、ちょっとした社会現象だという。
我が家の母娘も仲がいい。職場が一緒で、買い物にもよく一緒に出かける。
休日は二人で、デパートやブティックへ。二人で、洋服やアクセサリーの選びっこをしている。似合うものを見つけて、娘のものを母親が、 母親のものを娘が借用。
おしゃれを楽しんでいる。
母は新しい流行を娘から教わり、娘はおねだりして、ブランド品を手に入れる。
まことにもって都合のいい共生関係。

そうした社会現象を見逃さず、「母娘パック」は大繁盛。
食事をして温泉に浸って、リッチな日帰り温泉パック。
Kホテルは、フランス料理のランチタイムサービス、Nホテルは、豪華メニューのランチ・バイキング。何れも女性客で溢れている。
夫の方は、最近目立って増えてきた○○食堂で、750円のランチ。
妻は、友達とリッチにホテルでフルコース…21世紀は女性の時代ですよね!



【心と体の健康情報 - 308】
~子育て心理学~ 「子育ては妻まかせ」

私達の世代は高度成長期、「企業戦士・働き蜂・会社人間」などと言われ、土曜も日曜もなしに猛烈に働いてきた。
現在、少しは理解されるようになったが、日本の企業は、会社より個人の都合を優先しようとする、マイホーム型の男子社員には、 冷ややかである。
出世を望むなら、与えられた仕事を全うしようとするなら、子育てに関わっている暇はなく、妻まかせにせざるを得なかったのです。

しつける、勉強を見る、遊び相手になる、悩みの相談に乗る、子供の食事の世話をする…など、先進国の中で、 子供とかかわる時間が極端に少ない日本の父親。
子育て・家事一切を妻にまかせっきり…それを誰も疑問に思わない日本の社会。

私がサラリーマンの頃、誰もがそうであったように、会社漬けの毎日だった。
休日も付き合いで、家に居ることは少なかった。
年に2~3回罪滅ぼしに、家族をドライブに連れ出す程度。
子供を抱いたり、一緒に遊んだり、子育てに加わった記憶はない…。
私たちの世代の父親が、子供のしつけを疎かにしてきたツケが、今日の日本に様々な問題を引き起こしているのでしょう…。

木曜夜9時放送「菊次郎とさき」の、北野家と隣人たちのように、 昔は、両親が子供に構っていられなくても、お爺ちゃん、お婆ちゃん、兄弟姉妹、近所の子ども達、ご近所のおじちゃん、 おばちゃんが子どもに関わってくれた。

今は少子化時代。近所付き合いも希薄。
母親は一人孤軍奮闘して、子どもと向き合っている。
そして、ノイローゼ、虐待など、新たな社会問題を引き起こしている。
以下、曽野綾子「最低限は学校で教えられる」から…。

子育てを、保護者は学校に期待し、先生は家庭でのしつけに期待する。
今の日本、「最低の道徳」さえ持ち合わせない子ども達が大人になっていく。
元はといえば、両親がしつけをしなくなったことに問題がある。
その、しつけられない両親をつくったのは戦後の学校教育。
つまり"学校教育"にも責任があるのです。

今の日本に、敬われるに値する父母がどれだけいるだろうか。
有名なモーゼの「十戒」には、「父母を敬え」「殺してはならない」「盗んではならない」「姦淫してはならない」がある。
こうした戒律を犯す行為は、社会秩序を乱すとして、諌められた。

何があっても「殺す」行為をしてはならない。
妊娠中絶は合法と認めているから…。
また、子どもが夢中になって遊ぶ殺人ゲーム…。
そこに都合のいい価値観が入り込み、要らない子ども・親・友達は、「殺してしまえ」ということになる。

我が身も、殺してしまえば問題が解決すると、自殺する。
邪魔になるからと、意図的に命を断つ行為は、一人の人間として、取り返しのつかない大きな罪悪になることを、 知らねばならない。
大人は子どもに、命の大切さを叩き込んでおかねばならない。

「盗んではならない」も、しつけの根幹をなすものである。
万引きをするような人間は、他のいかなる教育も受ける資格がない。
「人間失格」の第一歩であることを、厳しく教えなければならない。

子どものしつけは、家庭内で行うものであって、学校で教えるには限界がある。
親の子育ての考え方が多様化し、学校や先生の教育が気に食わないと、干渉したがる今の時代。先生の努力が報われず、 空回りしているようだ…。

2007年08月31日

香林坊の栄枯盛衰

■故郷金沢の「M&A」

8/9の北国新聞2面。"ホクチン「のざき」買収"の大見出し。
地元優良企業ホクチンが、焼き魚製造販売の「のざき」を買収するという。
野崎社長(64歳)とは、某経営者団体での付き合い。
後継者がいないため、ホクチンは全株式を買取り、25名の従業員・取引先・のれんを、丸ごと引き継ぐことになった。
「のざき」は金沢の近江町市場に店舗を構え、「のざきの焼き魚」のブランドで、水産加工品の製造販売を行っている。
年商は約5億円。近年増収増益で、事業は好調。
企業価値が高い今、好条件で会社を売却することに…。

石川県が、県内の企業にアンケートしたところ、約半数の企業に後継者がなく、会社を引き継ぐ社員がいない。
自分の代で会社を閉じることになると回答している。
少子化が後継者難を引き起こしているのです。

私の親戚の会社も、十年ほど前、取引先の大手企業に会社を丸ごと売却した。
その数年後、同業者の多くが不況による競争の激化で、廃業に追い込まれている。
企業価値が高い間に買い手を捜し、会社を手放す…そんな時代になったようです。



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 189】
~歴史から学ぶ~ 「香林坊栄枯盛衰」

私は香林坊生まれ。
昭和63年、現在の場所に引っ越すまで、47年間香林坊が変貌していく姿を見てきた。
昭和30年、当時約140世帯が軒を連ね、商店、飲食店、スナック、キャバレー、ダンスホールなど、商店街は昼も夜も活気に溢れていた。
日本刀の伊藤刀店とか、漢方薬の"へびそ"が懐かしい。
マムシが、店先に置かれたビンの中で、何匹もとぐろを巻いていた。
"仙宝閣"があり、香林坊交差点の料亭"魚畔"には、金沢初のエレベーターがあった。
洋菓子喫茶のオリヤンタル、多田万年筆店など、名の知れたお店が軒を並べていた。
昭和34年4月、皇太子殿下と美智子妃のご結婚パレードが、全国に放映されることになり、テレビが一気に普及し始めた。
私の家の隣に、民放MROがテレビ普及のためのショールームを開設。
大相撲放映の時などは、山のような人垣が出来て、その時の声援が、今も耳に残っている。

昭和35年以降、国道拡張に伴う再開発で、店舗付き住宅ビルが、アーケードを連ねるようになった。
その後、東急109やホテル、大手銀行・生保が次々と進出してきて、街並みは金融・オフイス街へと衣替え。
その後、大和デパートが移転してきて、ほぼ開発が終了した。
街区が近代化されるたびに、長年親しんできたお店が、どこかへ引っ越していった。
香林坊のピークは、昭和35~40年の頃。
バーゲンセールでは、私の父の店にも動きが取れないくらい、お客様が殺到した。
大手のスーパー、ほてい屋(ユニー)、長崎屋が相次いで片町に進出し、県内外の有名店が競って、片町・香林坊に出店した41年以降、 隣の片町商店街に客足が移り、競争の激化で、父の店の来店者数は減っていった。

■商店街から、金融・オフィス街に変貌した、昭和48年当時の香林

昭和48年当時の香林坊ビル街

 

[道路左側]
三菱銀行、加州相互銀行、私の住いがあるビルと続き、隣の日本勧業銀行がかすかに写っている。その奥の茶色のビルは、 ニューグランドホテル。

[道路右側]
新築間もない、農林中央金庫と共栄火災海上のビルが写り、その奥は建設中の千代田生命ビル。

北陸随一の繁華街、香林坊の地価がピークに達したのは、バブル崩壊後の 1992年。
その年の最高路線価は、大和隣の"いちの谷カバン店"で、3.3平方メートル1,472万円。
1989年のバブル絶頂期、2千万円だった片山津ゴルフ会員権が、7千万円に高騰。
いかにバブルが凄まじかったか…平均株価が3万6千円に跳ね上がり、国中が舞い上っていた頃です。

北陸一を誇った商店街も、バブルがはじけた後、郊外に次々進出する大型ショッピングセンターに顧客を取られ、 繁華街の象徴だった映画館街(11館)の灯も、一つ消え、二つ消え、今はゼロ。
現在香林坊に居住を構えるのは、コンビニを営む I さん一世帯のみ…。
その I さんは、明治に石川県最初の自転車店として、その名を知られている。
繁華街周辺は、若い世帯が郊外に移住して、年寄りばかりの空き地と駐車場がやたら目立つ、寂しい街になってしまった。

香林坊の寂びれようは、大手銀行、デパート、ホテル、商店の整理・淘汰の嵐となって、北陸銀行香林坊支店の撤退に始まり、 農林中央金庫は閉鎖・売却、倒産した石川銀行跡地には高層マンションが建ち、第一勧銀跡には、東横インがこの10月にオープンする。

8月2日、国税局が今年の路線価を発表した。
香林坊は3.3平方メートル182万円。地価はようやく下げ止まったが、‘92年当時の8分の1以下… 28年前の水準にまで落ち込んでいる。 

8/2北国新聞「石川の路線価」より

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