■昭和22年頃
終戦直後から、激しいインフレになり、米国政府から派遣されたドッジがインフレ解消策を打ち出す昭和24年まで、物価は高騰を続け、 数百倍になった。
*都の職員給与が3倍に引き上げられ、男子400円、女子300円に
*国鉄東京~大阪間値上げ。三等15円が36円に…都電20銭が40銭に
*映画の入場料3円、電話料一通話10銭が20銭に
*郵便料三倍の15銭に値上げ
*たばこ「ピース10本入り」7円(日曜・祭日のみ発売/一人1コのみ)
昭和20年の財閥解体に続いて、農地解放が実施され、小作人の八割が自作農になった。
当時の農地価格は、全国平均10アール当たり760円だった。
22年4月の総選挙で、社会党が143議席を獲得して第一党に。5月20日、社会党の片山哲が首班となり、内閣を組閣。新憲法のもと、
歴史に残る第一回国会が召集された。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 171】
「わが家のコレクション」
3月中旬、事務所を1階から2階に移転したついでに、自宅の押入れなどに仕舞い込まれていた不用品を処分した。
その時、戸棚の奥に仕舞い込まれていた父親の手文庫を開けた。
中から戦前の10銭札、1円札に、中華民国で発券された壱百円札、拾円札、そして戦後間もなく印刷された新円などが、
大きな牛皮の二つ折り財布の中に仕舞い込まれていた。
昭和21年2月、加速度的に進むインフレを抑制するため、預金封鎖が実施された。
そして、新円への切り替えが行われた。新円への交換引き出しは、1ケ月に所帯主は300円、家族一人当たり100円認められ、
後は引き出すことができず、預金は封鎖された。
興味を引いたのは、昭和15年に発券された、"支那事変"の軍事費調達のための「戦時国債」。
額面300円の債券が、大切そうに手文庫の底に仕舞い込まれていた。利率年3分6里5毛、昭和35年を最終として、
毎年10円95践を20年分割で受け取る内容。
仕舞い込まれていたのは、昭和21年以降、35年までの15年分約164円、敗戦で紙くずになってしまった証書。捨てきれなかった、
当時の父の思いが伝わってくる。
昭和21年11月1日、一日大人一人2合5勺(355グラム)の"お米"の配給が始まった。
国民待望の主食の配給である。
この時、政府配給米の価格は一升5円23践。
ヤミ値は、政府配給米が出たことで、8月一升80円だったのが、50円に下がった。それが翌々年の23年8月には、
一升270円になっていた。
敗戦色濃い19年春頃から食料が欠乏しだし、栄養失調に近い状態が続いた。
当時私は5歳。食卓には、スイトンに芋のツルの佃煮、つくしの酢の物など…。
タンパク質を補うため、四高(第四高等学校・現在の中央公園)グランド前の、用水に沿った石垣のイバラの植え込みから校内忍び込み、
イナゴや銀杏を採ってきて、夕飯の食材にした。
イナゴの佃煮はパリパリと香ばしく、美味しかった。
満州から引き上げてきた叔父家族を含め、わが家は13人。
母親の実家が農家だったことが幸いして、ひもじいながらも、食いつなぐことができた。
米や野菜、芋など、どれだけお世話になったことか…