■福井地震が起きた昭和23年という年
終戦、戦地からの引き上げ者が家庭に戻って、第一次ベビーブームに…
その時生まれた世代が今年から来年にかけて、定年を迎える。
1月、厚生省防疫技官と名乗る男が、集団赤痢の予防薬と偽って、行員17人に毒薬を飲ませ、12人が毒殺されるという「帝銀事件」
が発生した。
犯人は18万1千円の現金と小切手を奪って逃げた。
7ヶ月後に平沢貞通が犯人の人相に似ていると、逮捕された。後に死刑判決。獄舎で無実を訴え続けたことで知られる。
同じ1月、NHKのど自慢登場。おさげ髪の美空ひばりが唄う"りんごの歌"や、笠置シヅ子の"東京ブギウギ"は、
終戦直後の暗い世相に明るいムードを投げかけた。
*東京の銭湯、大人4円から6円に値上げ。 映画入場料、20円が40円に
*1ヶ月の新聞代、20円から27円に値上げ
*国鉄、東京~大坂間155円が400円に、都電は2円から3円50銭に
*戦後初のバナナが入荷。小売一本40~50円と、庶民の口には入らなかった。
(今なら、一本3~4千円/物価は当時の1000倍近くになっている)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 170】
~歴史から学ぶ~ 「福井大地震」
東京や京都の友人・知人などからか、能登地震の安否を心配して、お便りをいただきました。
ありがとうございます。おかげ様で被害はありませんでした。
3月25日、日曜の9時半過ぎ、コタツに入ってTV「サンデーモーニング・スポーツご意見番」を見ていたら、
ゴーという予兆的地鳴りと揺れに伴って、大きくグラグラッと来た。
「近いぞ!」、かなり長い時間横揺れが続いた。
後日、能登半島地震と名づけられる地震がやって来たのです。
国史跡の七尾城跡の石垣が崩れ、国重要文化財の時国家の壁に亀裂が入った。
総持寺のしっくい壁もはがれた。
能登の文化財の被害は21件に及び、被害の大きかった輪島門前町では、水田や水路が壊れ、自宅の被災と合わせ、
田植えをあきらめた農家が25軒出た。
七尾市のつつじが浜の知人に、翌日の午後ようやく電話がつながり、安否を尋ねた。
七尾湾を埋め立てた住宅団地。団地内の道路や住宅の一部が、液化現象で陥没、被害が出たと言う。
海べりに建つ加賀屋が、立替を要するほどの被害を受けた?という噂も流れてきた。和倉温泉の被害状況は、集客に影響するため、
かん口令が敷かれていると言う。本当だろうか??
被災から復興に向け立ち上がろうとする矢先、半壊した民家から、高級タンスを盗み出そうとした泥棒が逮捕された。
はるばる東京からやってきて、被災地をうろつく。そんな輩が何人もいるという…なさけない。
子どもの頃一度だけ、このような大きな地震に見舞われたことがある。
今回の地震発生まで、金沢は大地震と無縁の土地だと思っていた…。
23年6月28日午後5時15分、福井市九頭竜川下流付近で、震度7強の地震が発生。
夕飯の準備に入っていたため、市内各所で火災が発生。市の大半が焼失した。
死者は空襲で亡くなった人の倍の3290人、負傷者8000人、家屋全半壊46525戸、焼失6308戸という、
神戸震災に匹敵する大惨事になった。
"福井大地震"と名付けられた。
私は当時7歳。自宅の二階で遊んでいて、突然「ユサユサ、グラグラ」
母親が階下から駆け上がってきて、私を引き寄せ、手を握り締めた…。
初めて経験する大きな揺れに、手すりにしがみつき、おびえていた。
金沢は震度4だった。
福井県に隣接する大聖寺は地盤が弱く、落ちてきた屋根瓦で怪我をするなど、多数の家屋が被害を受けた。
福井市は、昭和20年夏、空襲で一面焼け野原となり、やっとの思いで復興を為しえた。その矢先の大地震。
戦後、食うや食わずの辛酸をなめ、これからという時の被災でした。
この地震で、日本地震学会が初めて、震度7というレベルを設定した。
■福井空襲
昭和20年7月19日夜10時頃、B29爆撃機の編隊120機が福井市に来襲。
まず、市の外周部に照明弾を投下し、徐々に中心に向かって約9500発の焼夷弾を投下した。
油脂爆弾は全市を猛火で包み、防空壕に避難した人たちは蒸し焼きになり、水を求めて、福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人たちが、
折り重なって死んだ。
福井市の市街地の95%が焼失。一面焼け野原となり、被災率は全国最大となった。
死者は1600名を数え、市民の多くが家族や親戚を失い、戦後復興に大きなダメージとなった。