■真の学問とは…
今の時代、十五歳といえば、中学を卒業して高校に入る年代である。
十五歳前後というのは、人生の進む方向や、「志」を立てるには大変大切な
年頃です。
昔は、十五歳で元服。もう一人前の大人である。
当時の中国の士大夫の子弟は、十三歳の頃までに一通りの学問を終えた。
そんな意味で、「吾十有五にして学に志し…」は、学問に志すには、遅きに
失している。その疑問に答えて、孔子は…
「なるほど、それまでにも師に付いて何かと教えは受けていた。
じゃが、学問の尊さを知り、自ら求めて学ぼうとする熱意を持ち始めたのは、
十五の年じや。
恥ずかしい話じゃが、それまではなんの自覚もなく、教えられるままにただ、
物まねをしていたに過ぎなかった。物まねは学問ではない…。
まことの学問は、自ら求めて、勉め励むところに始まるのじゃ…」
下村湖人「論語物語」より
【心と体の健康情報 - 267】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(5) 吾十有五にして学に志し…」
■論語の中でも、とりわけよく知られている「天命を知る」
「子曰わく、吾十有五にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知り、
六十にして耳従い、
七十にして心の欲する所に従えども、矩(ノリ)をこえず」
(為政第二)
「先師が言われた。私は十五の年に聖賢の学に志し、
三十になって一つの信念をもって、世に立った。
しかし、世の中は意のままには動かず、迷いに迷ったが、
四十になって物の道理がわかるにつれ、迷わなくなった。
五十になるに及び、自分が天の働きによって生まれ、
また、何ものにも変えられない、尊い使命を授けられていることを悟った。
六十になって、人の言葉や、天の声が素直に聞けるようになった。
そうして、七十を過ぎる頃から、自分の思いのままに行動しても、
決して道理を踏み外すことがなくなった 」
苦労人の孔子は、人生の生き方について、人間関係の処理について、
更には、仕事への取り組み方などについて、論語の中であれこれ語っている。
孔子の偉いところは、貧乏暮しの中にあって、いささかもめげることなく、
いつも前向きの姿勢で、たくましく生きたことです。その最も有名な言葉が
「天命を知る」です。これは、孔子の一生を要約した言葉といえます。
孔子は、春秋時代後期の紀元前551年、魯(ろ)の国、今の山東省で、
父親の孔家からは認知されない、第三婦人の子、「野合の子」として生まれた。
三歳の時、父親が死去。冷遇されて育った、母子家庭の子だったのです。
困窮の少年時代を過ごし、小さいときから、生計を助けるために働きに出た。
17歳の時、母が亡くなった後にようやく、孔家の跡取りに認知された。
(子どもの頃の境遇は、二宮金次郎とよく似ている)
このように、孔子は初めから悟りすました人間ではなく、人生の目標を設定し
ながら、その目標に向って絶えず、自分を鍛え上げていったことが伺えます。
■「十有五にして学に志す」
素質的に優れていて、15歳で学問で身を立てようと決心し、人生の目標を
設定した。19歳で結婚、翌年長男出生。二十歳のとき倉庫の管理人になり、
その後、家畜の管理人になったりして一家を養った。まじめで、よく仕事を
こなしたという。
孔子は、機会があればどこででも教えを乞い、学問のチャンスをつかもうとし
た。鄭(テイ)の国の君主が古代史に造詣が深いと知るや、鄭に行き、また、
大思想家"老子"を尋ねて、教えをこうたりもした。
■「三十にして立つ」
学問の知識が深まるにつれ、三十歳の頃、学問の師を志し、自立した。
その頃から、多くの弟子を受け入れるようになった。
■「四十にして惑わず」
学問を深め、弟子も集まるようになった。そろそろ、政界へ登用されることを
願うようになった。しかし、政治の中枢に参画して、自らが信ずる正しい道を
実現したいと願っても、魯の国では願いが叶わない。隣国の斎へ自らを売り
込みに行ったが、うまくいかなかった。
40歳の頃、自分の進む方向に、揺るぎのない確信が持てるようになった。
ここで初めて孔子は、迷いが吹っ切れた。
しかし、四十代の脂が乗った頃になっても、仕官の道は開けず、あせった。
時折襲ってくる動揺…。その時の心境から、「四十にして惑わず…」と、
言い残すようになったのでしょう…。
-以下次号に続く-