勉強のできない我が子(2)
■ヤマ勘も才能のうち?
吉村の"ヤマ勘"。一番の思い出は高校卒業の時。病気療養中で、学校から
就職の斡旋がない。無断で、学校推薦なしで、一箇所だけ就職試験を受けた。
一回こっきりのチャンス。一発採用に賭けた。注目を引くために…まず、市販
の履歴書を使わず、和紙に"一字一魂"筆書き! 巻紙にたたんで提出した。
次いで、面接での質問を想定して、事前に予習。作文も苦手だった。
そこで、出題に山を張った。浮かんできたのは「実社会に出るにあたって」。
4百字詰め原稿用紙二枚分、前もって作っておいて、試験場に臨んだ。
試験会場の商工会議所別館は、高卒2名採用に、75名の学生で溢れかえった。
就職難の時代だった。当日は一次試験。学科試験と作文、面接は五人まとめて
行われた。
学科試験の後、いよいよ作文。奇跡が起きた…。試験官がやおら黒板に
「実社会に出るにあたって」と書いた…。その瞬間を忘れない。数日後、
二次面接の通知が届いた。三次面接も無事通過。採用通知が届いた…。
「運」という字は"ワ冠に車"、それに動きを表す"しんにゅう"が付いている。
つまり、一所懸命走り回らないと、"運"は掴めないということです。
【心と体の健康情報 - 263】
~子育て心理学~
「勉強のできない我が子、両親はどう導く?(2)」
豊田商事事件に関わり、元日弁連の会長で、弁護士の憧れの的"中坊公平"氏。
幼少の頃神童と思いきや、成績は"丙"ばかり。落ちこぼれの生徒だったのです。
公平少年、幼い頃から寝小便が直らず、16歳まで続いた。ところが、母親に
叱られたという記憶がない。「お母ちゃん、またお布団が濡れた…」と言えば、
母親は何時であろうと起きてきて、笑って、新しい布団に変えてくれた。
公平少年が、社会の評価を初めて受けたのは、昭和17年。公立の中学の
入学試験を落第した。試験当日父親は、息子が泣きじゃくって帰ってくることを
察知して、布団を敷いて寝ていた。
布団に抱き込んだ父親、
「公平、心配せんでもえェ、おまえにはお父ちゃんとお母ちゃんが付いてる」
続けて母親が、「公平、今は戦時中です。何れ平和になる。その時は公平の
時代ですよ!必ず公平が活躍できる時代になる」と、公平に希望を持たせた。
中学二年の一学期の中間試験の時、突然クラスで一番の成績になった。
「お母ちゃん、僕一番や!」と母に言ったら、「公平、あんたは天才や!
いいかい、秀才は徐々に成るもんやが、天才は一夜にして成るもんや…」。
いつの間に自分は天才になったんやろう…?良かったなァ~、と喜んだ。
ところが、一学期の期末試験では、25番に落ちた。
「お母ちゃん、やっぱりあかんかった…」と言ったら、母親は「何言うてんの、
世の中25番が一番ええのや。"中庸は徳の致すところ"とあるやないの…」
(中庸…儒教の教典。四書…「大学」「中庸」「論語」「孟子」)
入学試験に落第した時は、「公平が悪いんやない、世の中が悪いんや…」
と母親。どんな状況であっても、プラス思考でいることを教えてくれた。
両親は、我が子に何を与えようとしたのでしょう…。
「安堵感」を与えようとしていたのです。「安堵感」
を人に与える人間になること、
それは社会人になった後に特に必要なことです。人生落ち込んだ時、
「安堵感」を持つことで、「意欲」が湧いてくるものなのです。
自分には鉄の才能しかない。しかし、クラスメートには負けたくない…。
そこで、どうしたらいいか?知恵を働かせた。中坊少年は、ヤマ勘を働かせる
ことが大得意だった。先生は、「採点しやすい問題」を出題してくることに気付
いた。そこにヤマを張った。
この特技が幸いして、京大に受かり、弁護士になった。自分は誰より頭か悪
い人間、"鉄"の人間と自覚していたからこそ、しっかり地に足を付けて人生を
歩み、人生の階段を上り詰める処までいったのです。
私(吉村)も人並みに勉強した。が、所詮は"鉄"。頭の良い、IQの高い生徒
には敵わない。人と同じことをしていてはダメと、いつの頃からか、試験問題
に山を張るようになった。"第六勘"がよく当たるのです。思わぬ才能に気づき、
ヤマを張ることを得意とするようになった。
中学二年の一学期、クラスの成績順位が30番以下だった私。それまで、親から
「勉強しろ!」と言われたことがなかった。それが、三年の二学期末には3番に
なっていた。ヤマ勘の威力はすごい!
そのコツは、いたって簡単…
(1)どんな問題を出題するか、出題する先生の立場に立ってヤマを張る。
(2)毎日の授業の進め方に注意。先生が1ページに費やした時間の長さを、
ページの頭に書き込んでおき、先生が多く時間をかけた箇所を、重点的に
復習。