連休初めの28~29日の二日間、金沢で開かれた「クジラ・サミット」に参加
するために来沢した、熊本のY子さんと8年ぶりにお逢いし、食事を共にして、
クジラ談義に花を咲かせた。
Y子さんは、クジラ食品の製造販売の会社と、クジラ専門のレストランを経営。
毎年、捕鯨を推進する日本代表の一員として、国際会議に出席している話などを
伺った。
佐世保・五島列島は「鯨」捕鯨の町。連休の一週間、その地でスキューバダイビン
グを楽しんだ。佐世保まで乗用車で13時間、フェリーで2時間半、片道17時間
半かけて西日本を横断、九州長崎県西方沖に浮かぶ五島列島の煌めく海へ。
絶景ビュースポットで潜水を楽しみ、心身ともにリフレッシュした。
【心と体の健康情報 - 243】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え 信無くんば…」
私の近所の小学校。集団登・下校時、街の角々に父兄が見張りに立つ。
「街で知らない人に声を掛けられたら、口を聞いたり、言うことを聞いてはい
けません」と、先生は子ども達に注意する。
今の子ども達、物心つくか・つかない頃に、「人を信じてはいけません!」と
教え込まれる…?。寂しくも、悲しい世の中になったものです。
明治の初期の頃の日本人には「信」があった。米国の学者モースは、日本人を
「生得(しょうとく)正直である」と、
自らの著書の中で書いている。旅館の部屋
の盆の上に置き忘れた財布が、一週間後もそのままで、無事だったという。
(中日春秋より)
孔子も又、人間関係の基本としての「信」を、最も重視した。
「信」とは「信頼する・信じる心」「嘘をつかない」「約束を守る」ということです。
一言で言うと"誠実さ"といってよいでしょう。
論語に、
「人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり」(為政第二)
というのがある。
孔子は「人にあって信がなければ、どうしようもない。もはや人間として評価
に値しない」とまで断言しているのです。
"バレ"なければ、人が見ていなければ、好き勝手に何をしてもいいという、
そんな事件が多発する今の社会にあって、この「信」の持つ意味は重い…。
以下、PHP 「リーダーのための中国古典・論語」から、その一端を紹介します。
ある時、子貢(シコウ)という弟子が、 「政治の最も重点課題とすべきは何でしょうか?」と尋ねた。 孔子は答えた。 『一つは食料の充足、二つは軍備の充実、それに、社会の中に信を 確立することだ 』 「では、その三つの内、仮に一つをあきらめねばならぬとしたら、 どれを選ぶべきですか?」 『軍備だよ』 「残りの二つの内、仮にもう一つあきらめねばならぬとしたら、 どれになりますか? 」 『もちろん食料だよ。人間はいつかは死ぬ。死を逃れることは できないが、この社会から信が失われたら、生きていても その甲斐がないではないか 』 |
この問答から、孔子が人間関係を基本にして、「信」即ち"誠実さ"に基づいた
信頼関係を重視し、大切に思っていたことが伺われる。
孔子の教えは、「この人生をどう生きるか?」「目の前の現実にどう対処する
か?」実生活での人間関係のあり方に注がれている。日常生活において、私た
ちの心を最も悩ます問題、それは「人間関係」です。論語はこの問題について、
様々な角度からヒントを与えてくれます。