孔子の教え/論語を学ぶ
■孔子さまの子孫
先週の27日は、京都で論語の勉強会。孔子様の75代目の直系子孫、祥林先生
が伊与田先生の招きで中国から来日。通訳を挟んで、二時間半の講義を受けた。
孔子は紀元前551年、魯の都、現在の山東省曲阜(きょくふ)県で生まれた、春秋
戦国時代の「儒教の創始者」です。現在、孔子の子孫「孔家」を名乗る者は数知れ
ず、中国に400万人、韓国に10万人いるという。
中国における「孔家」は天皇家のよう。家系が途切れることなく続く。中国歴代の
王朝は途切れるが、孔子の子孫は世奪され、文化の源として尊重されてきた。
釈迦やキリストは宗教家で、教祖さま。子孫が現存しているとは聞いたことがない。
孔子は、思想家・教育家であって、宗教とは無縁。崇め奉わる存在ではない。
「儒教思想が排斥された文化大革命の時でも、迫害をうけることはなかった」と、
祥林先生は言う…。
曲阜市には、孔子を祭る「孔子廟」、孔子のお墓がある「孔林」、孔子の歴代の子孫
が住む「孔府」がある。これを「三孔」といい、北京の故宮と並ぶ中国古代建築物と
して、世界文化遺産に指定されている。
(注)前403 「孫子の兵法」が著される
前221 秦が中国全土統一、始皇帝を名乗る
【心と体の健康情報 - 242】
~古典から学ぶ~
「孔子の教え 論語を学ぶ」
ものには"本末"というものがある。
木に例えれば"根"が本であり、"幹や枝"が
末になる。人間の"本"は「徳性(道徳心)」であり、"末"が
「知識・
技能」になる。
吉田松陰のことばに、「それ学は 人の人たる所以を学ぶ」というのがある。
"人の人たるゆえん"は、大きくは「徳性」と「知識・技能」の二つに集約される。
徳性を修めようと思うなら、「人間学」を修める必要があるのです。戦後60年、
私たちは末学一辺倒の教育を受けてきた。末学は大事だが、本学あっての
末学なのです。
本学といえば「論語」。その論語を学んで丸二年。今年三年目を迎える。
月に一度くらいで"学んでいる"などと、とても言えるレベルではない…。
ましてや論語を語るなど、とてもできない…。
「論語」といえばかしこまって学ぶもの…。孔子といえば聖人君子の代名詞の
ように思いがちですが、本当のところは、孔子の人生は苦労の連続…。
決して成功とはいえない人生だったのです。
孔子は、一国の宰相たらんと志ながら、雄途半ばで挫折。その傷心を乗り越え
尚、人間としての在るべき姿、君子たるものの在るべき姿を追求し続けたのです。
厳しい人生体験を重ねていく中から、人間としての生き方を語る書物が生まれ
た。それが論語なのです。
西の"バイブル"、東の"論語"と言われるように、昔から最も基本を為す教養の
書として読まれ続けた。江戸時代には、武家は「四書五経」を学び、農民や町人
は「手習い(習字)と論語」を寺子屋で学んだ。
寺子屋で学んだ町人・百姓の中から、幕末を動かす人物が多数輩出されたの
です。
メルマガでは、孔子の人生と、生き方をたどり、断片的ですが、私の心に残った
文列に焦点を当て、その文章が示す意味を理解し、深めていくことで、論語に
一歩でも近づいていければと思っています。
戦後、私たちの世代、こうした儒教思想や中国古典は、教育の現場から遠ざけ
られてきた。一部、社会の指導的立場にある人達の間で、経営者・管理職が読
む教養の書として、読み継がれてきたのです。
論語には、「人間として、自分をどう高めていくか?」、あるいは「人間関係
にどう対処するか?」など、人間学の基本が様々な形で解き明かされていま
す。
日本人が過去に、世界一教養があり、公徳心の高い民族と言われてきたのは、
まだ物心つかない幼少の頃に論語を素読し、四書五経に慣れ親しんできたこと
に起因している。
今の時代、論語を親しむ人は少ない。そのため中国の古典は、ある程度人生
体験を経てから読んだ方が、理解が早いようです。特に「論語」は、一回こっき
り読み捨てにするような書物ではない…。折に触れ、繰り返し、繰り返し読むこ
とによって、いよいよ味わい深くなってくる。そんな"座右の書"のような書物な
のです。
いつまでも未熟な私。論語を学ぶことによって、少しは徳性らしきものが身に
つき、器が大きくなることにつながれば、幸いです…。
PHP 「リーダーのための中国古典・論語」から
(註) 四書…論語・大学・中庸・
孟子の四書
五経…易経・書経・誌経・春秋・
礼記の五書
(註) 君子…単に王様を指すのではなく、
徳をそなえた為政者のこと。
現代の解釈では、人の上に立つ人、人格者のことを言う。