グアム、サイパン、パラオ、ボルネオなどに、ダイビングや観光で何度か訪れている。戦争の残骸を目にしたが、 住民は親日的で平和そのもの…。悲惨な戦争の面影など、どこにもない。だが、六十数年前は…
■太平洋戦争での主な玉砕
(1/27読売新聞「検証・戦争責任」)
「アリューシャン列島・アッツ島」S18年5月
・日本軍2千6百人が、米軍1万1千人と戦闘の末、30人足らずの捕虜を除き全員戦死。
「ニューギニア」S19年5~7月
・日本軍1万3千人が、米軍3万人と戦闘の末、1万2千人が戦死。
「サイパン」S19年6~7月
・日本軍4万4千人が、米軍と戦闘、4万2千人が戦死。
・民間人8千人がマッピ岬から投身自決。
「グアム・テニアン」S19年7~8月
・日本軍2万8千人が、米軍6万人と戦闘の末、2万2千人が戦死。
「パラオ」S19年9~11月
・日本軍1万1千2百人が、米軍6万人と戦闘の末、1万人以上戦死。
「硫黄島」S20年2~3月
・日本軍2万2千人が、米軍6万人と戦闘の末、2万1千人が戦死。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 111】
~歴史から学ぶ~
「風化させてはならない 特攻で散った命」
イラクとその周辺の諸国で、毎日のように繰り返される"自爆事件"。そのたびに市民が巻き込まれ、
痛ましい犠牲者が増え続ける。
60数年前の日本。昭和20年の終戦までの一年間、世界の戦史に例を見ない、体当たり特攻作戦が繰り返され、
延べ9500人もの若者が、ただ死が待つ戦場に散っていった。
昭和19年9月、海軍省の方針に従って、「海軍特攻部」を発足させた大西中将は、第一航空艦隊の参謀に、「こりゃあ、
統率の外道だよ…」と語ったという。
そもそも作戦とは、わずかでも生還の可能性がある「九死に一生」が限度。片道の燃料しか持たせず、100%
死が予定されている「十死零生」の特攻は、"作戦の名に値しない!"と言ったのです。
昭和20年5月、当時陸軍士官学校の生徒だった、新潟県長岡市出身の"渡辺悦男"さん。突然
「将校面会室に来るように…」と、教官からの指示。
部屋に入ると、軍服の袖に金色の鷲(わし)をあしらった「特攻章」を縫い付けた、兄"裕輔"(少尉・23歳)が立っていた。
「何で特攻に行くんだ。この戦争は負ける。士官学校の先輩は、ろくな武器も持たず、戦地で死んでいった。国民には、 竹やりで戦えとまで言っている…。特攻に行く必要など全くない!」
弟が言い終えると、兄はうなずきながら、ゆっくりと口を開いた。
『もう勝つとか負けるとかではないんだ…。今ここで若い自分たちが国を守る意思を示さなければ、
戦争終結への道は遠のくばかりだ。そうなれば日本は、戦争をし続けることになり、国民の犠牲は計り知れないものになる…』
兄の決意の固さを知り、二人は抱き合って別れた。一ヶ月後、新潟に住む両親の元に、兄が書いた「出撃五時間前 平心」 の絶筆と、遺髪が届けられた。
生身の人間が爆弾と化して敵艦に体当たり攻撃する。マリファナ沖海戦以降、日本の戦力が著しく低下する中、 少ない戦力で効率よく戦果を挙げる、手っ取り早い手段として考案された。
もう一つは、日本の兵士が、国のために命を惜しまない姿を見せることで、徹底抗戦の意思が強いことを示し、
米軍の継戦意欲をそそごうとする狙いがあった。
繰り返される沖縄への慰霊に、「あれほど無謀で、でたらめな作戦はない。戦争指導者の責任は極めて重い」との思いを、
弟さんは抱いた…。
フィリピン・硫黄島・沖縄と、戦場が本土に近づくにつれ、"特攻"は激烈を極めた。米軍が沖縄に上陸した4月には、
海上特攻として、戦艦大和が出撃した。
しかし、大和はいかなる目的も達することなく、戦果らしいものもないまま、3,721名の若者の命と共に、
沖縄の海に沈んだ。
1/27読売新聞「検証・戦争責任」から抜粋
終戦当時私は4歳。戦時中の暮らしぶりや、身の回りで起きた様々な出来事を、今も鮮明に覚えている。
私たちの後に生まれた世代は、戦争を全く知らない。国を憂えて死んでいった人達のことを思い、
自らの命を無駄にすることなく、大切に生きていかなければならない。
そのためにも、「男たちの大和」は、今後機会があれば、是非見ておきたい映画です。