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2006年01月 アーカイブ

2006年01月06日

ガマの油売りの口上

あけましておめでとうございます 
私が生まれ育った香林坊。東急ホテルと109が建つ前は、松竹座、スメル館など
4館の映画館が並び、お正月は沢山の人でにぎわった。ストリップ劇場、立花座
横の急な坂を下りた右奥にも、東映・日活など、4館の映画館が並んでいた。

映画館が建つ前は「香林坊大神宮」でした。香林坊交差点に面して大きな鳥居が
あって、境内には大きな銀杏の木があった。毎年春と秋にお祭りがあって、祭礼
の前日、商店街の子ども達に混じって、店の軒先にしめ縄を張って歩いた。

春と秋のお祭り、そして初詣には、大神宮・尾山神社・石浦神社の境内に、沢山の
露店が並んだ。何の娯楽も無かった時代。露店を一軒一軒見て歩くのが何よりの
楽しみだった。
境内には見世物小屋が立った。"ろくろっ首"や"人魚"、"蛇女"などを出し物にし
た呼び込みは、祭りを盛り上げた。
また、バナナの叩き売りや、ガマの油売りなどの大道芸人の周りは、人だかりで
一杯。人垣をかき分けて前にしゃがみ込み、飽きもせずに見ていたものです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 107】
~ことば遊び~
「ご存知 ガマの油売りの口上」

正月のBS2は、映画「男はつらいよ・寅次郎」特集を放映していた。ふーてん
の寅さんといえば大道商人。その口上では「バナナの叩き売り」「ガマの油売り」
が有名である。そのガマの油の口上、知名度が高い割には知られていない。
全部だと長過ぎるので、よく知られているさわりの部分を紹介します。

♪ さァ~さお立会い、御用とお急ぎでない方は、ゆっくり見ておいで!
-- 途中略--
…… だがしかしお立ち合い! ほうり銭や投げ銭はおよしなさい。
手前大道に未熟な渡世をいたすといえど、ほうり銭投げ銭は貰わぬ。
では何を稼業にいたすというに、手前持ちいだしたるは、これにある、
万金膏四六のガマの油だ。
そういうガマは、俺の家の縁の下や、流しの下にもいるというが、
それは俗にいう、おたま蛙、ひき蛙といって、薬効の効能の足しにはならん!

手前、持ちいだしたるは四六のガマ。四六、五六はどこでわかる。
前足の指が四本に、あと足の指が六本、これを名づけて四六のガマ。
このガマが棲めるところは、これよりはるゥ~か北にあたる、
筑波山のふもとにて、車前(おんばこ)という露草を食らう。
このガマの獲れるのは、五月に八月に十月。
これを名づけて五十八(ごはっそう)は四六のガマだ!

お立会い! 山中深く分けいって捕まえましたる、このガマ。
油を獲るには、四方に鏡を立て、下に鏡を敷き、その中にガマを追い込む。
ガマは己の姿が鏡に写るのを見て、ウウッ!おのれと驚き、
たらァりたらりと油汗を流す。
これを下の金網にすき取り、柳の小枝をもって三・七、二十一日の間、
とろォ~り、とろりと煮詰めたるが、この万金膏ガマの油。

赤いは、辰砂椰子油(しんしゃやしゆ)の、てれめんてえかにまんてえか、
金創には切り傷、効能は出痔・いぼ痔・はしり痔、ひびにあかぎれ、
しもやけの妙薬。そのほか腫れ物一切に効く…。
ま~だある。大の男が七転八倒する、虫歯の痛みもピタリと止まる。
いつもは一と貝で百文だが、今日は広めのため小貝を添え、二貝で百文だ!

いや、いや、ちょっと待て! ガマの油の効能はそればかりかというと、
まぁ~だある。刃物の切れ味を止めて見せようか…。
手前持ちいだしたるは、鈍刀たりといえども、先が斬れて元が斬れぬ、
なかばが斬れぬという、そんな代物ではない。

ご覧の通り、抜けば玉散る氷の刃(やいば)、目の前にて白紙を一枚切って
お目にかける。さッ!一枚の紙が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、
八枚が十六枚、十六枚が三十と二枚! 春は四月落花の形、比良の暮雪は、
ふうッと散らせば、雪降りの形だ、お立合い!

かほどに切れる業物(わざもの)でも、ひとたびガマの油を塗るときは、
たちまちなまくら、白紙一枚容易に斬れぬ。さ! この通り叩いても斬れぬ。
引いても斬れない。抜き取るときはどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。
さわったばかりで、あッ痛! このくらいに斬れる。

だがお立合い、こんな傷はなんの造作もない。
ガマの油を一つけ、付けるときは、痛みが去って、血がぴたりと止まる。
いつもなら…一貝が百文だが、本日は出ばってのご披露、
小貝を添えて、二貝でたったの百文、さァ買った!買った! 
なんとお立合い……     --以下略--

※今は亡きふ~てんの寅さん。あの人懐こい親しみのある顔でタンカを切り、
  口上を述べている姿が浮かんでくる…。

2006年01月10日

勉強は人のためにするもの

昨日、真っ青に晴れ上がったセイモアスキー場で、今年の初滑りを楽しんだ。
一週間前の正月休みは、「♪ここは串本向かいは大島」紀伊大島で、スキュー
バーダイビング。木枯らし吹く中、延べ6時間6本潜った。どちらも気分は最高!

明治23年9月、トルコ軍艦が台風に見舞われ、紀伊大島の灯台沖で座礁沈没。
艦長以下581名の尊い生命が海に消えた。生存者はわずか69名、海運史に
残る大惨事だった。その歴史ある海に潜った。 (詳しくは、メルマガNo244)

【心と体の健康情報 - 227】
~子育て心理学~
「勉強は人のためにするもの」

以下、小松市民病院、上野良樹小児科部長「勉強は人のためにするもの」からの
抜粋です。
不登校の子ども達、その数はまだまた減少する気配を見せない。
小中学校の生徒数は減っているから、比率としては増えているのかもしれない。

不登校の原因は、時代とともに変化していく。「勉強への不安」「クラスでの
いじめ」などで、どうしても登校できない。何とか登校できても、教室に入る
ことができず、保健室で一日過ごすしかない子供、そんな子供が今も沢山いる。

ところが最近は、学校や勉強に"意味"を見出せない、あるいは勉強そのものを
否定する子供が増えてきているのです。

先生「学校へは、やっぱし行きたないか…」 子供『行ってもしかたないし…』 
先生「そうかなァ~、勉強したり、友達と話したりしたくないんか?」
生徒『学校の勉強なんか役に立たんし、パソコンでゲーム作って儲けた方がい
    い…』
先生「そうか…。じャ、勉強は何のためにするんや?」
生徒は、うんざりした顔で…、『自分のためやろがいね…』
先生「違うやろ。勉強は人のためにするもんやろが…」

子供は、初めて聞くみたいに、びっくりした顔になった。
先生「今、自分のためと言うたけど、自分の"何のために"勉強するがや?」
生徒『いい大学に入って、いい会社に就職して、いい生活するためやろがいね…』
先生「そうかなァ~ 自分のためだけやったら、別に働かんでもいいがいね…。
    フリーターでもいいし…」 子供『………』

先生「勉強は自分じゃない、人のためにするんや。ゲームだって世界の歴史や
地理を知っとって、人の気持ちが分からにゃ、ほんまのいいもんは作れん
    わいね。人から必要とされて初めて、価値が生まれるんやないかな…」
こんな会話のやり取りの後、子供は学校へ戻って行った。

小さい頃、耳にタコが出来るほど、「人の役に立つ人間になるんやぞ!」と、
親に言われて育った。昔はそれが普通だった。
病気で苦しんでいる人たちを助けたい、貧乏で病んでいく子供たちの力になり
たい。そんな思いは、どれほどのエネルギーを生み出すか…。
シュバイツァーやマザー・テレサの例をひくまでもないことです。

それが、いったいいつの頃から、人は自分の為にのみ勉強し、自分の為だけ
に生きようとするようになったのだろうか? そこからは、何のエネルギーも
生まれては来ない。それどころか、世の中の為にならないことに、エネルギー
を費やそうとする…。
「人の役に立つ」「自分が必要とされる」ことを自覚したときの喜びは、娯楽など
から得られる喜びなどとは、比べようもありません。

2006年01月13日

三八豪雪の思い出

12月半ばからこんなに雪が降ったのは、二十年ぶりとか…。温暖化で、
もう雪が降らないのかと思っていたら、やっぱり北陸。大雪になった。
■五六豪雪(1981)
当時40歳。大寒波がやってきた日、年賀会で大阪にいた。終了後、ホテルの
部屋に戻ると、「北陸に猛烈寒波」とTVが報道していた。JR・国道・高速道路、
北陸方面への交通網はすべてOUT…

同室のH社長と、「どうしよう? 帰れなくなる…」「羽田から小松便がまだ飛で
いる!今すぐ東京へ行こう…」。二人の決断は早やかった。新幹線に飛び乗った。
翌日何とか小松空港にたどり着いた。その日の午後、空港は閉鎖された。
ちゅうちょしていたら、大阪のホテルに缶詰になっただろう…

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 108】
~歴史から学ぶ~
「三八豪雪の思い出」

昭和38年の正月は、例年になく雪が少なかった。当時私は22歳。
1月11日の夜、高校のクラスメイトの家で久しぶりに酒を飲み、談笑した。
夜もふけた12時過ぎ、家に帰ろうと外に出たら、ビックリ!
来るときには無かった雪が、40センチも積っている。寒波襲来である。
真夜中、ひざまである雪をかき分け、吹雪の中を家に帰ったのを覚えている。

その後三週間降り続き、平年の3倍、3mを超える未曾有の大豪雪になった。
15日65センチ、大雪注意報発令。23日135センチ、史上第二の大雪に。
横安江町アーケード崩壊。27日181センチ、史上最大の積雪を記録。
金沢城お堀通りにある、スポーツセンターの屋根が抜けた。

片町から犀川大橋への何でもない上り坂。零下6~7度の猛烈な寒波で、
道路は"キンカンなまなま"(カチカチ/金沢にしかない方言)、カガミのよう。
自動車があちこちで立ち往生…。皆で押しても動かない。

国道・国鉄などの主要交通網は寸断され、市民生活は完全に麻痺…。
福井県には、死者31名、家屋の全半壊10,244棟の記録が残っている。
当時の便所は汲み取り式が多かった。し尿処理の衛生車が入れず、市民生活
に支障をきたした。


(住宅の二階まで埋まった雪を
かき出す。長いツララに注目)

降り積もる雪と、繰り返す屋根雪下ろしで、道幅の狭い金沢の裏町、一階部分が雪で埋まってしまった。

妻の実家は道の狭い材木町。毎朝、雪に埋もれた家から外へ出るのに、まず、玄関の中に雪を掻き入れ、 道路に登る階段を作る。二階の窓から出入りする方が、よっぽど楽である。   

一日かけて会社の周りの雪をのけても、翌朝また同じだけ積った。 仕事にはならず、屋根の雪下ろしと除雪に明け暮れる毎日だった。 関西から応援に駆けつけた機動隊員が、夕方帰りがけ、突然驚いた声で、「おおッ、電灯が足元で光っとるわ!…」        

当時私は日立に勤めていた。二週間経っても降る雪は止まない。県内の電気店
からは、暖房器を早く届けて欲しいとの矢の催促。そこで、キャラバン隊を組 んで、トラック三台で能登方面に向った。一日かけて、何とか羽咋までたどり 着いたが、それ以上は無理。やむなく引き返したのを覚えている。

国道8号線の除雪が終わり、全線開通したのは、一ヶ月後の2月11日になって からである。

この三八豪雪が教訓となり、本格的に機械除雪が整備され、市内の主要道路 に融雪パイプが敷かれた。そのお陰で、18年後の五六豪雪の時は、混乱を 最小限に食い止めることができた。

ようやく落ち着いた二月中旬、私は将来全国をまたに商いをしたいと、東京の 会社へ面接に…、復興開通したばかりの上越線で上京した。 蒸気機関車が客車の前部と後部を挟み、先頭にラッセル車を連結して、あえぎ ながらの峠越え。雪ですっぽり埋もれた鉄路を、11時間かけて東京へ行った。

就職内定の通知が届いた。念願の上京! 夢が大きくふくらむ (^-^)/~ 三年間お世話になった会社を退職し、慌しく上京の準備へ…。ところが、直前 の3月30日になって、病気の再発が分かる (-_-; 万が一にと検査を受けた、 その日の午後、まさかの緊急入院。隔離病棟に入れられた。
又も夢が弾けた。高二に続き二度目…。忘れることのない昭和38年の春です。

2006年01月17日

人生誰のため、何のため頑張るのか

■人生、最後が良ければすべて良し…
NHK大河ドラマ「義経」で、あかね役を演じた女優の萬田久子さんが、
自らの人生を振り返って、次のように語っている。

「人生はオセロみたいなもの。
途中、白黒いろんなことがあるけれど、最後に白を取れば全部白になる。
人生を振り返ると、途中何年も辛いことがありました…。
けれども、その時期があったからこそ、今があると思うのです。
人生、最後に白を取れたら、すべて良しなのです…」

【心と体の健康情報 - 228】
~幸せな人生を歩むために~
「人生誰のため、何のために頑張るのか…」

誰もが、いい人生でありたいと願っている。だから、自らの人生のために勉強
するのは、しごく当たり前のことです…。
前号で、「勉強は自分のためではなく、人のためにする」というお話をしました。
「自分のためではなく、人のために学ぶ…」。理屈では分かるのですが、今一つ
説得力に欠ける。そこで、更に突っ込んで「人生誰のために、何のために頑張る
のか…」を、考えてみたいのです。

トリノオリンピックまであと一ヶ月。代表選手が次々と決まっていく。
前々回シドニーの女子マラソンで優勝した高橋尚子。「自分がこんな成績を上げ
られたのは、監督さんのお陰であり、応援してくれた皆さんのお陰です」と、
その時のインタビューで語っている。

あれだけの成績を出せたのは、決して自分一人の力ではなく、両親や監督、
応援して下さった多くの方々のお陰だと、自分の中でしっかり受け止め、
それをエネルギーにして走ったという。

そこで思い出すのが、更に四年前、アトランタオリンピツクの時…。
あの時、三位で表彰されたのが有森裕子さん。高橋さんと同じ小出監督に育て
られた。
二位に入ったのがロシアのエゴロワさん、一位はエチオピアのロバさんでした。
NHKは、この三人にインタビューしている。

まず銅メダルの有森裕子さんに、「あなたは何故そんなに一所懸命走るの?」
と尋ねたところ、「私は自分のために走りました」と答えた。
前回は二位、そして今回は三位に終わった。
しかし彼女は、自分自身のためにベストを尽くして走ったのだから、
三位になっても「自分を誉めてあげたい」と、胸を張って言い切った。
その言葉が国民の共感を呼び、その年の「流行語大賞」になった。

銀メダルのエロゴワさんは、同じ質問に対し「それは、家族や親戚のためです」
と答えている。ソビエト崩壊直後のロシアは生活が大変だった。
「自分が頑張れば、家族や親戚が豊かになる」。そのためには、どうしても勝た
なければならない。アメリカに渡り、特訓に耐え、そして、勝利したのです。

金メダルを取ったロバさんは、「私は祖国の名誉のために走りました」と、
凛として答えた。
「私は、東京オリンピツクで優勝したアベベ選手を尊敬しています。もう一度
祖国エチオピアに栄光をもたらしたい。その思いから頑張りました」と言う。
それまで無名だったロバさん。無名の新人が、自分と家族のためだけではなく、
祖国の栄光のために、金メダルを勝ち取ったのです。

三人三様それぞれ、熱い思いを胸に、自らが目標とする栄光のために走った。
人が人生を歩むとき、「どんな思いを胸に歩むのだろうか?」。
かけがえのない人生、自分のために頑張るのは当然でしょう…。
それは、自分を大切にする思いの中から、沸き出てくるものだからです。

けれど、その自分は誰の世話にもならず、この世にポツンと生まれてきたわけ
ではありません。必ず両親があり、家族があり、地域があり、国家があり、
世界があり、生まれてきた時代が関わってくる。
国家との関わりでは、あの忌まわしい太平洋戦争で散っていった特攻隊員や、
モスクワ大会ボイコットで、機会を逸した柔道選手などのことが思い浮かぶ。

家族や周囲の人々のお陰で、学校や地域の人々に支えられたお陰で、日本
という国に生まれたお陰で、持てる力を存分に発揮することが出来たのです。
そういう思いを持ち続けていれば、自分の人生は、決して自分のためだけに
あるのではなく、地域社会すべての人たちとのつながりの中で、生かされて
いることに気づくのです。
そこから、自分に、そして周りのすべてに感謝できるようになっていく…。

そういう気持が、「人から与えられることに満足するだけではなく、人のため
に何かをしたい…、社会のお役に立つ仕事をしたい…、両親に恩返しをしたい
…」。そんな思いが、歳を重ねるにつれ、湧き上がってくるようになる。
そんな思いを実現するために、更に「勉強しよう!」という気になるのです。

2006年01月24日

思いやりは”流汗悟道”から

■森信三・修身教授録から  「しつけ三原則」

一.朝、必ず親に挨拶をする子にすること
二.親に呼ばれたら必ず、「はい!」とハッキリ返事のできる子にすること
三.履物を脱いだら、必ずそろえ、
   席を立ったら、必ず椅子を片付ける子にすること

石川TVPM8時、細木数子が学校の教室で、子供をしつける番組をやっていた。
その体育の授業で、"脱いだ服をたたんだ子"は、半分もいなかった。
今の子ども達、こんな当たり前のことが、家庭でしつけられていない。
「親をしつけるのが目的でした」と、番組の最後に細木数子は本音を語った。

「しつけの始まりは、まず母親自らが、ご主人への朝の挨拶をハキハキし、ご主人に呼ばれたときも、必ず『はい!』と、はっきり返事をすることです」と、森信三の修身教授録にある。
細木数子も又、お母さん方がご主人と向き合うときの姿勢を、諭している。
子は、親の後ろ姿を見て育つのです。

【心と体の健康情報 - 229】
~子育て心理学~
「思いやりの心は、"流汗悟道"から…」

「勉強だ、塾だ」と、子どもにうるさく言う母親は多い。
が、家事を手伝わせ、お使いを"義務づける"親は、どれだけいるのだろうか? 
逆に、何でも欲しがるものを買い与える親の方が多いのでは? 
子どもの将来のためにはならないと思う。
以下、元松下政経塾副塾長、上甲 晃氏の講演から…

「流汗悟道」の伝統を守る"北海道児童支援施設"(旧、北海道家庭学校)。
この学校の授業は午前中のみ。午後は作業服に着替えて、自分達の生活に必要なもので、自分達で作れるものは、すべて自分達の手作業で作るという教育方針。

必要なものは買ってくるのが普通…。便利だけれど、それでは大切なことに気づかない。この施設では、味噌もバターも、野菜も、机も椅子も作業服も、あらゆるものを可能な限り、自分達で作る。

学校を訪れ、教室に入るとき、こうした施設だから、机も椅子もぼろぼろだろうと思った。ところが、実にみごとにきれいに使われている…。
「どうしてですか?」と尋ねたら、『自分達で作るからですよ…』との答え。
自分で作れば、机を作る人の苦労が分かるのです。
苦労がわかると、大切にしようという心が、生まれてくるのです。

子供の心を育てようと思うなら、まず"やらせてみる"ことです。
実際に自分で体験させることです。
娘が、お母さん「食事を作るって、本当に大変ね!」って、食事を作ってみて初めてわかることです。経験して、初めてお母さんの苦労が分かるのです。
これが「流汗悟道」の教育です。可能な限り自分で体験する。
体験すれば、人の苦労が分かる。
人の苦労が分かれば、他人に対する思いやりの心が生まれてくる。

「流汗悟道」が家庭学校の教育の基本になったのは、三代目の校長の時。
支給した制服。生徒にどんなにやかましく言っても粗末にし、汚してしまう。
困り果てた末、生地を買ってきて、近所の洋服屋さんを先生に、子ども達に自分の制服を作らせた。ピタッと汚さなくなった。
自分で制服を作って、作るのが大変なことがわかると、制服を大事にしようという心が生まれてくる。これは、鍵山秀三郎の「お掃除」でも言えることです。

牛の出産にも、子ども達を立ち会わせた。牛のお産は難産なことが多い。
母牛のお腹から半分、子牛の体が出かかったところで、お産が止まってしまった。子供たちが力を合わせて、子牛を引っ張った。最初は恐くて、そろりそろりと引っ張っていたら、先生に「そんなことでは駄目だ!」と、怒鳴られた。

皆で思いっきり引っ張ったら、子牛がドサッど生まれ落ちた。
あまりにも難産だったので、生まれた子牛は息をしていなかった。
「みんな、交代で鼻を吸え!」と、先生の怒鳴り声。交代で懸命に鼻を吸った。
そのお陰で子牛の命が助かった。

その瞬間、一人の子供が「ワ~」と泣き出した。ものすごい声で泣いた。
母親が子供を産むということが、こんなにも辛くて、こんなにも命がけで、こんなにも大変なことを…。少年は初めて知ったのです。

僕の母ちゃん、こんな辛い思いをして、僕を生んでくれたのだ。それなのに僕はずう~ッと母ちゃんを悲しませてきた。親不幸をしてきたんだ…。
「母ちゃんゴメン、母ちゃんゴメン」と、涙が止まらなかったと、日記に書いている。
経験して初めて他人の苦労がわかり、他人への思いやりの心が生まれてくる。
「流汗悟道」である。野菜を作るのも、"大変"がわかってこそ、米一粒でも残したりしてはいけないという心が育つのです。
人が作ったものを買ってきて、間に合わせようとするから、作った人の心が分からず、買ってきたものを粗末にしてしまうのです。

■「流汗悟道」
"汗を流して働けば、人の苦労や親の苦労が分かる"という意味です。
これは、大正時代に「北海道家庭学校」を設立した"留岡幸助"の言葉です。
現在は不良行為、又は生活指導を必要とする子供たちの施設として運営されている。
留岡氏の理念「人が人に与える影響以上に、自然が人に与える影響は大きい」 との考えで、広大な敷地には、農作業用の畑と、いくつかの寮、古い礼拝堂がある。

礼拝堂の正面の講壇の頭上には、「難有」 と書かれてある。
"難が有る"、反対から読むと「ありがとう」になる。
困難なことに出会うのは、人間として"有り難い"ことなのです。

2006年01月27日

千 玄室/茶のこころ

「男たちの大和」を見られたでしょうか。先週の金曜日は、京都で論語の勉強会。
田舞代表は講義の中で、この映画を鑑賞した感想を語った。そして"ビンタ"には、
単なる暴力行為ではない、深い意味がある場合もあることを、知ったという。

以下、長嶋一茂ふんする下士官が、いよいよ死への出航という時、叫んだ言葉です。
  『進歩のない者は決して勝たない! 
 負けて目覚めることが、最上の道だ。
 日本は、進歩ということを軽んじ過ぎた。
 私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。
 敗れて目覚める…。
 それ以外に、どうして日本は救われるか!
 今日目覚めずして いつ救われるか!
 俺たちは、その先導になるのだ。
 日本の新生に先がけて散る。まさに、本望じゃないか!』

吉田 満著「戦艦大和ノ最後」より

今の時代に生きる私達。そうやって死んでいった若者たちの"志や愛国の心"を、無意味なものにしていないでしょうか…。

 

 

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 110】
~歴史から学ぶ~
「千 玄室/茶のこころ・終戦時の思い出」

「自分は誰の世話にもならず、この世にポツンと生まれてきたわけではない。
必ず両親があり、家族があり、地域があり、国家があり、世界があり、生まれてきた時代がある」
そこで、忘れてはならないのは、太平洋戦争で国を守るために散っていった特攻隊員や、戦艦大和の若き兵士たち…
以下、新春経営者セミナー講演講師、裏千家十五代家元"千 玄室"氏 「茶のこころ」から…「昭和20~21年、終戦当時の思い出」の部分です。

-前文略-
1945年3月末、予科練の下士官が集められ、司令官から
「いよいよ戦況が不利になってきた。貴様たちに死んでもらわなきゃいかん」
と、沖縄への特別攻撃隊の編成を申し渡された。

正直に、三つのどれかに丸印せよと、「熱望・希望・否」と書いた紙を渡された。
お国のために我が身をささげると、心に決めている。だから迷いはない。
名前を書かなければなりませんから、「否」に丸印を付けることなど出来ない。
私は「熱望」に丸を付けた。全員が特攻隊員になった。

仲間は順次、出撃の命令を受けたが、私は待機です。同僚と「一緒に死のう」と約束しており、上官にも訴えましたが、「命令が出るまで待て」と、待機させられた。そうこうしているうちに、終戦を迎えた。

多くの仲間が雄々しく敵艦に突っ込んで、亡くなっているのです。
一度死のうと覚悟を決めていた自分が、敗軍の将となった訳ですから、何とも言えずやるせなく、申し訳ない気持ちになった。

※戦後、「特攻隊員は、上官の命令で哀れにも死んでいった、戦争犠牲者である」と、学校で教え込まれた。実際は、今まさに死への旅立ちという時に、一人として自らの運命を呪い、嘆き悲しんだ者はいなかったという。

誰もがお国のため、後に残される妻や家族のためと、笑顔で飛び立っていった。
人のため、国のため、何にも代えられない自らの命を捧げた若者たち…。
時代が、当時の社会が、若者たちをそんな方向へと、導いていったのです。

しばらく虚脱状態で休んでいましたが、そのうち米軍の将兵たちが、お茶を飲ませてもらおうと、わが家にやってくるのです。勝った国の将兵が、どうして敗れた国の、それも難しいとされる、伝統文化の茶道に、興味を持つのか?不思議でした。
勝った国の者は、したい放題するもの…と思っていた。
日本を知るために伝統的なものを学べと、司令部の命令が出ていたそうです。
負けた国の文化を学ばせる度量の広さには、「さすがアメリカや」と思いました。

進駐軍第六軍司令官に、DAIKUという人がいた。
早稲田大学で学生を前に講演し、「君たちは茶道を知っているか? 利休という人が世に出て、織田信長や豊臣秀吉ら、多くの武将を弟子にした。茶室には武器を持って入れない。どんな人間でも平等で、序列もない。同じ所に座って、同じものをいただく。民主主義の基本を作った人だ…」と、話されたそうです。

神妙な顔をしてお茶を飲んでいる米軍将兵らを見て、戦勝国の軍人をここまでさせる日本の茶道とは、大変な文化やなと、改めて思いました。
-以下略-

※今の学校の歴史教育。千 利休などを通して、日本人に生まれたことを誇り に思う、そんな教育がなされているだろうか? 先人達が命を賭して築いてきた日本。その時代を創りあげてきた先人達のことを、もっと学ばなければならない。

我が故郷には、15才の時に「啓発録」を著し、後に処刑された"橋本佐内"や、近代日本を代表する哲学者"西田幾太郎"、禅を世界に広めた"鈴木大拙"、台湾でダム建設に尽力した"八田興一"、タカジャースターゼで知られる、科学者"高峰譲吉"博士などを輩出している。

学校で教わったかどうか、記憶が定かでない人もいる。こうした偉人たちの偉業を詳しく知ったのは、50歳を過ぎてからである。

2006年01月31日

ユーキャンドゥイット

■人生を丁寧に生きる 
した方が良いこと、しなければならないこと、
しない方が良いこと、してはならないこと、
この違いを学びに、この世に生まれて来た。

人生の後半に来たら、人生の前半で積んだ様々な欲や、 他人への罪や、悲しみのもとの荷を、降ろす作業に入るほうがいい…。
借り物の服はちゃんと洗い、シミはできる限り落とし、破れは小さくして、神に返したい。
してはならないことをすると、人の魂は傷つき、人の人生を狂わせる。
人の人生を狂わせると、必ず自分の人生も狂ってくる。
自分勝手な生き方は、信を失う。
人生は一度だけ。丁寧に生きなければならない。

致知2月号 北川八郎「三農七陶」より

【心と体の健康情報 - 230】
~子育て心理学~
「ユー キャン ドゥ イット」

昨年暮れ、みごと復活優勝を果たした高橋尚子さん。「君ならできる」という、
小出監督の言葉をポケットに入れて走ったという。
「君ならできる」 というこの言葉。誰にも可能性があり、その可能性を伸ばす
ために、師弟は厳しいトレーニングを積み重ねてきたという。
「君ならできる…」。実にいい言葉です。我が子に接するとき、部下を育成する
とき、そういう思いを強く持って、事に当りたいものです。

竹中平蔵総務大臣。内閣の経済政策の中核を担い、景気回復政策の中心的役割
を果たした。昨年NHKで、氏の生い立ちを語る番組があり、感銘を受けた。

「自分は和歌山市の小さな下駄屋の息子に生まれた。
 父は野球が好きで、少年野球の指導に力を入れ、
 店をほったらかしにした。
 そこで店は、母に任されることになった。
 どんなに仕事が忙しくても、
 母は朝・昼・晩の食事をキチッと作ってくれた。
 だから、自分のこの身体は、おふくろに作ってもらったものです」

私(吉村)の母もそうでした。家族9人の三度の食事を、朝早く起きて作り、
父の商いを手伝い、夜遅くまで身を粉にして働いた。
食事中に、店にお客が入ってくると、箸を置いて店に出るのは、いつも母…。

祖母の世話をし、家のため、夫のため、子供のため、働きずめの人生…。
そうやって、戦後の食料難の時代、兄や姉、私や弟、そして妹の6人兄弟を育
てたのです。毎日三度の食事をキチッと作って食べさせた。母は、ただの一度
も手を抜くことはしなかった。

家庭での、こんな当たり前に思うことが、今は崩れてしまっている。都会の
小学校では、朝食を抜いてくる子供が3/1はいる。ひどい所では、半分くら
いいるという。大抵の場合は、お母さんが働きに出るため、パンと牛乳が
テーブルに置かれる。子供はそんな物を食べず、途中で友達と買い食いするの
だという。
家族揃っての食事と会話が、家族文化を育てていく。お母さんの心のこもった
手作り料理が、親子の会話と、愛のある家庭を育む。
調理済みの、出来あいの料理を食卓に並べる家庭の子どもは、大人になって、
同じことをするようになる…。
そんな家庭に、親子のふれ合いが育まれるとは思わない。手間ひまかけた
「おふくろの味」が、家族文化を育てるのです。

話を戻して、竹中さんが悪さをして、叱られそうになったとき、母親は、
「あなたはそんなことをする子じゃないわ。何かの拍子でそうしたんでしょう。
私は信じている…」
そういう言い方をした。そう言われると、竹中少年は、二度と悪いことが出来
なかったと言う。「何て子なの! 何でそんなことするの!」と、叱られるより、
ずっと身にしみるのです。

この竹中さんが一橋大学を出て、ハーバード大学に留学した時のこと…。
ボストンで、初めてマラソンを見た。沿道で、みんなが「ユー キャン ドゥ 
イット」「あなたは ちゃんと できる」と、声をかけている。
そこで初めて、子供の頃、母親に言われたことに気づいた。
「あなたなら正しいことができる…、あなたは間違ったことをしたりしないわ…」

小出監督の「君ならできる」も、「ユー キャン ドゥ イット」。
竹中さんのお母さんは、「この子はいい子なんだから、きっといいことをする
ようになるだろう…あなたなら出来る」と、いつも信じていてくれたのです…。

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