NHK・BS2で、思い出深い昔の映画が再放されている。 最近では、裕次郎の「錆びたナイフ」、マカロニウエスタン「夕日のガンマン」、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」などを録画で楽しんだ。当時の時代背景が映し出され、懐かしさもひとしおです。
「希望は過去にしかない」とは、
フランスの文豪バルザックの至言である。
私のような歳になると、あのころは良かったと、何かにつけ、人生を振り返るようになる。
今、老人ホームでは、そんな過去を思い返すことで、若き活力を少しでもよみがえらせようとする、「回想法」という療法が行われているという。
米の精神科医が提唱し、「懐かしい歌謡曲」「若かりし頃の映画・写真・生活用具」などを使うと、昔話しが盛り上り、会話が弾む。"認知症"のケアに良いなど、年寄りの脳の活性化に効果があるようです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 106】
~日本人のアイデンティティー~
「会議のあり方」
ところが、「書く・話す」の世界では、どうして形式や手順にやたらこだわるのだろうか?
欧米人が日本人とビジネスをする時、どの日本人も同じように美辞麗句を並べ、
たてまえで接してくるので、不可解な気持ちになるという。日本人には個性がない、アイデンティティーが感じられないと言う。たてまえばかりで、本音が伝わってこないというのです。
どの会合においても、日本人が挨拶に立つと、「本日は大変お忙しい中、そしてお足許の悪い中、ご出席を賜りありがとうございます。さて、経営環境は益々混迷の…」。
欧米人は、こんなどうでもいいような挨拶を、くだくだ言わない。そんな暇があったら、さっさと本題に入り、本音で語りかけ、少しでも課題を前に進めようとする。
日本の会議での発言は、気配りのあまり、奥歯にものが挟まったような言い回しが多く、なかなか本音を言わない。持論をきっちっと主張し、議論を戦わせながら問題をまとめていこうとする欧米人とは、噛み合わないのです。
また、日本の会議は、一言も発言しない人が半数近くいたりする。関係なさそうな人まで集まって、主催者数人のやりとりを聞いて終わってしまう場合が多い。
会議の進め方も、最も大切な議題から優先して討議すべきなのに、トップの長々とした挨拶に始まり、"形式"に囚われ、式次第に沿った議事進行を粛々と進めているうち、肝心の重要議案が時間切れ審議不十分、次回に持ち越されてしまう。
だから居眠りする人も出てくる。やってもやらなくてもいいような会議が多い?ように思うのです。
米国の会議は、直接係わりのある担当者のみの少人数で、徹底討論する場合が多い。発言は真剣で鋭い。会議の目的に沿った準備が不十分であったり、自分の意見を持たない者は、出席を認められない。
逆に、主催者が目的不明の会議を招集したりすると、次からは、誰も出てくれなくなる。当然、居眠りしている暇など全くない。
会議の途中で、詳細な説明がいるとき、その時だけ必用な人を参加させるのがアメリカ。日本の場合は、そういった場合でも、最初から最後までずっと同席させている。
このように比べてみると、日本の会議は形式に囚われ、不合理で、無駄が多いように思うのです…。