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意味を問うことの大切さ

この一週間、西村代議士事件と、姉歯建築設計事務所事件で大騒ぎ。
自己保身と嘘と、責任のなすり合い。モラルのカケラもない…。

お金儲けと成功のためなら…、現在置かれている地位と幸せを守るためなら…、
「バレることはないだろう…」、悪いと知りながら、つい人の道に外れたことをや
ってしまう。社会人として守らなければならない大切なものが、欠落してしまって
いる。
運悪く?事件が発覚し、マスコミにさらされる…。世間を騒がせる反社会的行為
をしておきながら、悪びれる様子もなく、罪の意識も感じられない。

私たちがこうした事件と同じ状況に置かれた時、「私は、そうした欲望に惑わ
されない!過ちを犯したりしない!」と、言い切ることができるでしょうか?

こうした心の貧しさは、私たち世代に共通したもののようです。

【心と体の健康情報 - 223】
~子育て心理学~
「意味を問うことの大切さ」

11月の初め、高校一年の女子生徒が、母親を劇物で殺害しようとした事件が
あった。今の社会、親の子殺し、子の親殺しは取り立てて珍しいことではなく
なった。女子生徒が「尊敬する人」は、少年期に義母を毒殺した"ヤング"とい
う実在人物で、そのヤングの殺人手法を真似たのだという。

女子生徒の学業成績はトップクラスで、科学の知識も並外れて豊富。東大の
教授らの間で「すごい子がいる」と評判になったくらいです。それだけの才能が
あるのに、正しい方向に導くことが出来なかったのは、大人たちに責任がある
のではないでしょうか。

戦後の日本の教育界は、二度と戦争を起こさないという考え方が基本にある。
私達が学生の頃は、「哲学・道徳・修身」などは軍国主義につながると、一切
教育の現場から排除され、教えられることはなかった。

結果、高い能力の生徒を育てることが教育の目的になり、詰め込み教育一本や
りで、IQや偏差値の高い子供、テストの成績の良い生徒が、将来有望で優秀な
人材として評価され、ひたすら良い高校、良い大学を目指し、学校内で順位を競
ってきた。
そんな教育についていけない子供たちは、落ちこぼれと言われ、社会の片隅に
置き去りにされ、見捨てられてきたのです。

人を育てることよりも、産業界に役立ち貢献できる人材を育てることに偏ったの
です。「知識・技術」が優先され、「哲学・宗教・道徳」などの、人間を育てる教科
は、片隅に追いやられ、軽視されてきたのです。

哲学・宗教が教育にないということは、「意味を問う」ことがないということです。
「幸福とは何だろう」「人生とは…」「命とは…」「いじめとは…」といった意味
を問い、意味を考える機会を、私たちは与えられることがなかったのです。

人間を作っていかなければならない十代に、「家族とは」「親を敬うとは」「先祖
とは」といったことの意味の大切さを、学ぶことも、問うこともなく、ひたすら
「大きいことはいいことだ」「強いことはいいことだ」と、経済的豊かさを追い求め、
周りとの競争に打ち克つことのみを価値観とする、そんな人生を突っ走ってきた
のです。
人を育てる上で、私達は大切なものをどこかに置き忘れ、その重要性に気づ
くことなく、可愛さだけで子育てをしてきたのではないでしょうか。
生まれた時から豊かな環境に育ち、我慢を知らない子供たち。
大人になりきれない、"おども"を育ててしまったようです。

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