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2005年08月 アーカイブ

2005年08月02日

人間は教育されて人間になる

■森信三 修身教授録「しつけ三原則」 より
  (1896~1992)  近代日本を代表する哲学者・教育者

一.朝、必ず親に挨拶をする子にすること
二.親に呼ばれたら必ず、「はい!」とハッキリ返事のできる子にすること
三.履物を脱いだら、必ずそろえ、
   席を立ったら、必ず椅子を片付ける子にすること

更に、以下のように森先生は付け加えている。
このしつけのコツは、まず母親自身が、ご主人への毎朝の挨拶をハキハキし、
ご主人に呼ばれたときも、必ず「はい!」とはっきり返事をすることです。
そんな親の後ろ姿を見て、子は育つのです。

今の子どもたち、こんなごく当たり前のことが出来ていない。
三歳の頃までに躾ければ、その子は、一生「礼儀正しい」人間になれる。

【心と体の健康情報 - 206】
~子育て心理学~
「人間は教育されて人間になる」

昨年までの五千円札の肖像であり、「武士道」で有名な新渡戸稲造博士が、
49歳のとき(1911年)に「修養」という本を出版し、ベストセラーになった。
その「修養」の中の一節…

アメリカを旅行したときに訪ねた、ある有名な精神病院。そこには千人近くの病人がいたが、 その中の十人くらいは極めて利口な子供であった。
その子供たちは、専門家でさえも舌を巻くほど、学術的知識が豊富で、計算をさせると、 どんな複雑な計算でも、学者も及ばないようなスピードで、一瞬にして解いてしまうような少年もいた。
ところが、彼らには道徳観念というものが全くなく、平気で他人のものを盗むし、嘘をつく。

院長は「二十数年間、そういった子供たちに接して研究してきたけれども、 道徳観念と知識との間に接点はなく、全く関係がないことがわかった」と言うのである。

私は大変幸福な人間である。
というのは、日本人に生まれ、石川の金沢の地に、成人するまで両親の愛に
育まれ、しかも、最も平和で豊かな時代に、人生を歩むことができたことです。
(世界が100人の村ならばを思い出す)
わずか5~60年前の祖父が生きてきた時代を思うと、何千年と歴史を刻んで
きた中で、最も幸せな時代に生まれてきたことを感謝し、喜ばなければならない
のです。
前号で、インドの片田舎で、狼に育てられた二人の少女の話をした。1920年の
ことである。その後牧師夫妻に引き取られ、育てられたが、日中は暗い部屋の
隅で眠り、夜になると動きまわり、遠吠えをする。
二本足で立とうとせず、狼のように走り回る。人間が近づくと歯をむきだし、
威嚇した。物を食べるのは手を使わず、口で直接食べた。

牧師夫婦は、何とか人間に引き戻そうと努力したが、無駄だった。
二人の少女は二歳と八歳ぐらいでした。二歳の妹は間もなく死んでしまい、
姉はその後九年間生きた。
十数年前、オランウータンに育てられた子供が見つかった。狼に育てられた
少女同様、人間の世界に連れ戻すことができず、死んでいった。
このように、人間は育った環境によって、狼にもなれば、オランウータンにも
なれるのです。
高度な頭脳を持った人間にのみ起こりうることで、人間は教育しだいで、何に
でもなれる。そして、最も大切なことは、1~3歳頃までに受けた環境と、教育が、
その人間の脳にマイクロチップのように埋め込まれ、その後の一生の考え方、
行動を支配するようになるのです。
すなわち、「人は教育されて人間になるのです」

昔でいえば、武家の子は武家らしく、百姓の子は百姓らしく育っていく。
商家に生まれた私は、商売に励む両親のうしろ姿を見て、知らないうちに、
商売の面白さに引かれるようになった。
人間は、環境や教育の影響を受けて育ち、人生が定まっていくのです.。

2005年08月05日

欧米人が奇妙に見えること

イタリア在住の日本人女性が書いた「ローマの平日」というエッセーの中に、
イタリア人は、人前でへりくだった言動や態度をとることが全くないと、書かれ
ていた。つまり「謙遜」ということを知らない。
ですから、日本人が奥さんを紹介するとき、うっかり「うちの愚妻は…」などと、
謙遜した物言いをしようものなら、大変です。

むしろイタリア人は、人前で自分の妻や子どもを褒めちぎる。「相手を立てて
一歩引く」「謙遜する」といった文化がない。良し悪しはともかく、自らの考えは、
謙遜したり遠慮したりすることなく、はっきり相手に伝えようとする。

 

  

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 88】
~日本人のアイデンティティー~
「欧米人が奇妙に見えること(2)」

習慣や文化の違いで、エチケットに反する行為をしてしまうことがある。
人を手招きする時、日本人は手のひらを下にして、おいで、おいでをするが、
欧米では「あっちへ行け!」というゼスチャーになる。
手のひらを上にして手招きしないと、相手に不快な思いをさせてしまうので
す。
そのほか、肩をポンと叩いたり、子どもの頭をなでたり、人を指さしたりする
ことも嫌がられる。

江戸川柳に、「笑うたび 嫁手の甲を 口へ当て」というのがある。
日本では、女性が笑うとき、大きな口を開けるのははしたないと、口元に手
を当てるのがたしなみとされている。
しかし、欧米のマナーに従うなら、女性も大口を開けて笑わなければならな
い…??
家庭を訪問したとき、玄関に入ってコートを脱がないのが、欧米の習慣です。
しかし、女性の前では帽子はとらなければならないし、女性と握手するときは、
男性から先に手を差し出さないことです。
それと、ショッピングのとき、商品に触り、手に取るのは、マナーに反すると
言われる国があるので、外国へ行くとき注意しなければなりません。

話が変わり、一昨年は「SARS」で大騒ぎした。SARSといえば「マスク」。
日本でマスクが普及したのは、1918~19年にかけて。世界中にスペイン
風邪が猛威を振るったときです。その4年後の関東大震災で、広く定着した
と言われている。
中国では、街を歩くほとんどの人がマスクをしていた。ところが、スペイン風
邪で数千万人もの死亡者を出したヨーロッパでは、日本や中国とは逆に
「マスクをしている人はウイルス感染者。近寄るな!」という悪いイメージが
浸透してしまい、あれから百年近く経った今でも、「予防のためにマスクをす
る」という習慣がないという。

また中国のお正月は、どの家庭でも白と黄色の菊を、お祝いごとの花として
飾る。日本では、葬儀の祭壇を飾る花のイメージが強い。

ノエビアでは、婦人服や女性の下着も販売している。
商品カタログのモデルさんは、100%すらりとした小顔の白人女性である。
実際に着るのは身長も、体形も、肌色も違う日本の女性なのに、白人女性が
着てかっこよく見えるからって、自分も似合うと思うのでしょうか? 
ファッション雑誌の広告のほとんどは、白人がモデル。欧米人が奇妙に思うの
です。日本人の白人への憧れ、コンプレックスの現われではないでしょうか。

白人は、黒髪の女性を美しいという。日本人は、ツヤのある美しい黒髪を茶髪
に染めて美しいと思っている。最近は黒髪の女性が珍しいくらいです。
「へぇ~」と思うのは、日本の女性は整形して鼻を高くしようとする。アメリカの
女性は、可愛くて小さな鼻にあこがれる。そこで、鼻を低くしようと整形する。

日本では、女性が結婚すると、みんな「△△ちゃんのママ」「□□さんの奥さん」
と呼ばれる。ちゃんとした名前があるのに呼んでもらえない。外国から来た女
性は、存在を否定されたようで、すごく寂しい思いをするという。
きりがないのでここまで…。

2005年08月09日

大人って何なの?

今週末はお盆。昨年から今年にかけて、私と人生を共に歩み、夢を追い求めて
きた二人が逝った。私より若いのに… 冥福を祈ります。

「散る桜 残る桜も 散る桜」    

今年は戦争が終結して60年になる。戦後の復興、そして発展、経済大国へ…。
バブルが崩壊し、世の中が大きく変化していく中を、大きな不幸に遭遇すること
もなく、幸福な人生を歩んでこれた。
良い人たちに出会い、教え・導いていただいたお陰です。感慨もひとしおである。

【心と体の健康情報 - 207】
~幸せな人生を歩むために~
「大人って何なの?」

高校生の子度たちに、「将来何になりたい?」って質問したら、「大人になんか
なりたくない、子どものままがいい…」、そんな答えが返ってくるという。
将来の夢は?って尋ねても、「わかんなァい…」。尊敬する人は? 「さあ~?」。
大人って、ともかく大変みたい。だから、このまま子どもでいたいと思ってい
るのか、将来のことを真剣に考えようとしない。 

落語にこんなのがある。
「やい!熊こう。いつもごろごろして、何で働かねェんだ…」
『あァ、八ッつァんか…。そいじゃ聞くが、何のために働くんだよォ!』
「そりゃぁ~おめえ、決まってるじゃねェか、働いて金貯めて、楽するためよ!」
『なァんだ、そんなことか…、だったら俺、今、そのさァ~、毎日のんびり楽して
らァ~』

今の日本の子どもたち、世界一恵まれた環境に育ち、世界一贅沢が許され、
世界一幸せに暮らしている。生まれた時から、贅沢な生活に慣れ親しんできた
せいか、それが当たり前。感謝の気持ちなどあるわけがない。それよりも、将
来の方がいろんな不安が付きまとう。

黒柳徹子だったか、アグネスチャンだったか、アフガニスタンの難民キャンプ
を訪れたとき、栄養失調で、学校へも行けずに、ドブネズミのようになって働
いている子ども達がいた。
「君達偉いわね! 日本の子どもでも、自殺する子が沢山居るというのに…」
『へェ~そうなの、日本って僕達より、ずっと貧しい国なんだよね…』。
それを聞いた彼女、返す言葉がなかったという。

以下、7/9北国新聞「今日の言葉」、秋庭道博氏のコラムより

「大人」とは何だろう? 『広辞苑』には「十分に成長した人」「一人前
になった人」「考え方・態度が青くさくなく、考成を示しているさま」
というふうに記されている。

たしかに、それはその通りだ。しかし、ときとして、自分自身で
「大人とは何ぞや?」と考えてみてはどうか?
というのも、「自分は大人だ」と思っている人が、「大人とは?」とい
うことを考えるのは、「自分とは、何?」 と考えることにも通じるからだ。
結論は、「経済的、精神的に自立できているのが大人」とか、
「社会の中で仲良く交わっていけるのが大人」とか、「自分自身を
客観的に見ることができるのが大人」…とか、様々だろう。

中には、「自分の醜さを知っているのが大人」とか、「ありのままの
自分を人に見せないのが大人」という定義も生まれてくる。

大人は、やたらと分別くさく、保守的になるから嫌だ。いつまでも、子どもの
ように素直で純真で、何にでも興味を持ち、明るく振舞える人間でありたい
ものです…。
ところで、家の中で一番分別くさいのは? もしかしたら私? 
女房に決まっているじゃない…。

2005年08月12日

富山大空襲

戦後60年、富山や福井が空襲されたことを知る人は、だんだん少なくなってきた。
私の叔父家族は、満州から命からがら引き上げている。
そういった人たちの戦争体験を聴くことによって、私たちの父や母、お爺さん、
お婆さんが、どのような時代を、どのように生き抜いてきたのかを、知ることが
できる。
そして、無念のうちに死んでいった人たちへの思いをはせ、今の「平和な世の
中を大切に守っていく」。それが、戦争を知らない私たちの使命ではないでしょうか。
昭和20年、私は金沢の山手にある母親の実家に疎開していた。その時、富山の
空襲を見た。当時四歳だつた。焼夷弾がボコン、ボコンと、医王山の山向こうで
破裂するのを見た。まるで打ち上げ花火のよう…。
その時、地獄絵さながら、修羅場を必死に逃げ回っている人たちがいたことを、
知る由もなかった。

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 89】
~歴史から学ぶ~
「富山大空襲」

金沢に生まれながら、現在まで、富山や福井が空襲で焼け野原になった話を
聞く機会はなかった。また、語る人もいなかった。ただ一度だけ、富山市で建
設業を営んでいる友人が、幼い頃に自らが体験した富山の空襲を語ってくれ
たことがある。

あまりにも惨く辛い「あの日」の体験。その体験を人に話すこともなく、胸の内
の奥底深くに仕舞い込んで、現在まで生きてきたという。それを私に語ってく
れたのです。
その話と、8/1の北陸中日新聞に掲載された「伝えたい60年前の戦争」の
記事を重ね合わせて、当時の惨状をお伝えしたいと思います。

昭和45年8月2日未明、市中心部を襲った富山大空襲。本人の記憶と母親か
ら聞いたことを交えて、友人はポツリポツリ語り始めた。
午前零時36分、その2時間ほど前に一度は解除された空襲警報のサイレンが
再び街に響いた。防空頭巾をすっぽりかぶせられ、母親に抱かれて、近所の人
たちと防空壕に逃げ込んだ。
(一度来襲すると見せかけ、市民を油断させた後再来襲するのは、米軍の戦術)

焼夷弾が破裂する音がどんどん近づいてくる。視界がぱっと赤く染まった。
痛いほどの熱風とともに迫りくる炎。15人くらいだろうか、防空壕の中で
みな身をかがめ、息をころして震えていた。
と、その時、壕の入口の方から、「こんな所にいると、蒸し焼きになるぞ!
出てこんかァ、逃げろ~!」と、男の声。母は私を抱きしめて、身を潜めてい
た壕を飛び出した。

空襲は2時間、とぎれることなく続き、170機余りのB29から、焼夷弾が
ばら撒かれた。火の手に追われ逃げまどう人々。母は壕から出たみんなの
後にくっついて、神通川の方へ走った。
(パニックに陥ると、独自の判断が出来なくなり、皆が行く後にくっついて
  いこうとする)

その時、顔見知りの自警団のおじさんが駆け寄ってきて、「ダラ!そっちへ行
ったら駄目だ! 私の後について来なさい…」と、母の手を引いて、皆とは反
対の方向へ、嵐のように熱風が舞う中、田んぼの土手沿いに、必死になって
逃れた。
火の手に追われ、逃げまどう人々。生きながらに炎に焼かれる人、焼夷弾に
直撃され、吹き飛ばされ、押しつぶされる人…。母親は、わが子を助けたい
一心で、必死に逃げまどったという。

どれほど走っただろうか…。田んぼのくぼみに飛び込み、振り返ると、街は炎
の渦に包まれていた。まさに地獄絵そのもの。あまりにもむごたらしい光景。
母は、助かったわが身も忘れて、呆然と燃え上がる富山の市街を眺めていた
という。
街に戻ったのは空襲から二日後。焼け野原となった市中心部の防水桶や、
お寺の池は、焼け焦げた死体で埋まっていた。大和百貨店のコンクリートの
建物だけが廃墟となって残り、木造家屋の町並みは、なめるように焼き尽くさ
れ、一面原っぱのようになっていた。
ドロドロに溶けたアスファルトには、腸をさらけ出した人が死んでいた。
自宅近くの別の防空壕では、町内の人たちが蒸し焼きになって、折り重なって
死んでいた。

もしあの時、壕の外から「逃げろ!」と誰かが叫ばなかったら、私は生きてこの
世にいることは無かっただろう。また、壕から出て、神通川の方へ逃げた人た
ちは皆、川辺で炎に巻かれ、焼け死んだという。
(東京でも、隅田川に逃れようとした人たちが沢山焼け死んでいる)

私は、空襲から逃れるとき二度も助けられたのです。九死に一生を二度も味わ
った。この幸運を感謝せずにはいられない。人の運・不運は紙一重、結果が良
かったからいいものの、十中八・九は助からなかったと思うのです。

当時の光景を思い出すと、震えが出るくらい怖い。あの空襲の夜の光景が、
脳裏に焼きついて離れない。大勢の人たちの無残な死、炎の渦に包まれた町並
み。あの地獄絵が、夜中に何度よみがえり、うなされたことだろう。
そのたびに涙がこみ上げてくる。

福井市が空襲されたのは7月20日。富山は8月2日である。そのわずか二・
三週間後に終戦を迎えるのです。あとわずかで戦争が終わるというのに…。

このような惨事「二度と繰り返してはならない」。空襲による市民の犠牲者は
3千人を超え、8千人の負傷者が出た。今も詳細は分からないまま。
罪もない人たちが、いわれなき死を強いられた。そういった人達の、死にたく
ないという心の叫び、恐怖、苦しみ、無念さを、無駄にすることなく、後世に伝
え残していかなければならない。

2005年08月19日

アメリカの陰謀

■8月15日は終戦日?  8/15 読売新聞「終戦記念日」より

60回目の終戦記念日を迎えた。終戦は8月15日、玉音放送をもって終戦と、
疑いもしなかった。
天皇が終戦の詔書に署名したのは8/14。大本営が全陸海空軍部隊に即時戦闘
停止を命じたのが16日だが、全戦線で戦火がやんだのは9月に入ってからだった。
正確には、戦艦ミズリー号上で降伏文書に署名した9月2日が終戦日。
米国、フランスでは、9/2が「対日戦勝記念日」。ロシア、中国では何故か9月
3日となっている。

8/15は戦前から日本人には特別の日、「旧盆」である。第二次大戦が始まる
ずっと前から、お盆の日に合わせて「全国戦没者追悼式」が実施され、戦後は、
毎年マスコミが「玉音放送を聞いて泣き崩れる人々の姿」を流したことなどから、
多くの日本人が、8/15を、「戦いの終わった日=終戦の日」として受け止めて
いる。昭和38年になって(1963)法的決定がなされた。

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 90】
~戦争心理学~
「アメリカの陰謀・パールハーバーの真実」

アメリカには「秘密開示法」という法律がある。30年経つと、公文書や外交秘
密は、すべて一般に開示される。そこから、意外な史実が明らかになってくる…。
その開示文書を元に、「真珠湾の真実」という本がアメリカで出版された。日本
では文芸春秋が翻訳本を出した。ところが出版と同時に圧力がかかり、絶版と
なった。「ルーズベルトは真珠湾攻撃を事前に察知していた」との噂がある。
しかし、真実は闇の中である。

1939年第二次世界大戦が始まり、ドイツがフランスを降伏させると、近衛
内閣は大東亜新秩序の建設を唱え、1940年9月に北部仏印(インドシナ)
に進駐し、日独伊3国同盟を締結した。

日本軍の北部仏印進駐に激怒した米国は、経済制裁と日本向け石油の禁輸
に踏み切った。1941年11月27日、それまで続けてきた日米外交交渉は、
米国側の強硬な「ハル・ノート」提示で行き詰った。日本は即時降伏するか、
勝ち目はなくても一戦交えるか、何れか一つの選択を迫られたのです。
(国際連盟を脱退して国際社会から孤立していた日本。今の北朝鮮よりずっと
  厳しい状況にあった)

後に、「開示法」で公になった機密文書によれば、苦しくなった日本は
「窮鼠猫を噛む」で、アメリカに宣戦布告するだろうと、書き記してあった。
日本に戦争をけしかけ、戦いに勝って、それまで日本が持っていた中国・アジ
アの権益のすべてを奪い取ろうとする、米国情報戦略の筋書きに従い、事が
運ばれていったのです。

日本は真珠湾奇襲で太平洋戦争に突入した。アメリカの日本大使館の手違いで、
宣戦布告が真珠湾攻撃の後になってしまい、「だまし討ち」の汚名を負うこと
になった。
開戦前、日本は親日国オランダの好意で、石油を輸入することができた。
機密文書によれば、それは好意ではなく、日本の軍部が最小限度必要とする
量のみ売り渡すようにという、米国の裏工作によるものだった。
石油資源を確保しなければ日本は破滅するという、日本軍部開戦派をあおる、
巧妙な戦術だったのです。

オランダは、密かに日本の油槽船に磁石付きの電波発信機を貼り付けた。
その輸送船が、ハワイ攻撃の艦隊に随行していった。
更に米国は、日本海軍の無線を傍受し、解読に成功していた。
真珠湾攻撃直前の、日本の連合艦隊の軍事行動は、すべて米国の知るところ
となり、ルーズベルト大統領に逐一報告されていた。日本が12月8日未明、
真珠湾を攻撃することを、アメリカの上層部は察知していた事実があるのです。

ハワイ奇襲の朝、太平洋司令官はオアフ・カントリークラブで、太平洋艦隊の
艦長4人と、ゴルフをするため、朝食をとっていた。公文書の記録によると、
この5人の将軍のうち一人は、ゴルフが出来なくなることを知っていたという。
ルーズベルトから、「真珠湾から離れているように、追って指示する…」との、
内示があったのです。

平穏なハワイ。なのに前々日から、様々な指令が軍の上層部から出されていた。
(1)老朽船のみを湾内に残し、新鋭の主力戦艦、航空母艦は外洋に出ること。
(2)ハワイにある全レーダーを、シャットダウンするよう全艦隊に指令が出た。
   更に、通信員には休暇が出た。
  (レーダに、日本艦隊の動きが写し出されると困る)
(3)海兵隊には、二日間の外出禁止令が出た。平和なハワイ、しかも休日なの
   に何故? 皆わけが分からないまま命令に従い、それぞれの持ち場に残っ
   た。
日曜朝、突然日本軍が襲ってきた。停泊していた軍艦や軍の施設が、爆撃で
壊滅した。持ち場にいた二千二百名が犠牲になり死んだ。

次の日、全容が大々的に全米に報道された。だまし討ち奇襲攻撃との報に、
「リメンバー・パールハーバ」、怒りの大合唱が全米に沸き起こった。
その世論に推されるように、アメリカは第二次世界大戦に参戦していった。

巧妙なるアメリカの戦略。歴史に伝えられていることと、真実とが、こうも違って
くる。しかし、真実は闇の中である。

増田俊男「目からうろこの会」より

2005年08月23日

今忘れ去られてしまった躾け

■言葉遊び「回文」。左から読んでも、右から読んでも、同じ言葉になる。
  今日は現代版です。
煮ろ釜でマカロニ」 「ニワトリと小鳥とワニ」「留守に何する
ロダンてさっきの喫茶店だろ」「台風ふうふう吹いた」 「くどくど口説く

・プロ野球からは、吉井の意思よ! 」 「いつまで待つか、勝つまで松井
やい、清原!ほら、早よ来いや」  「いつまで打つのっ!打て、松井!
・相撲では 力士、塩なめ直し、仕切り
・K-1では 今、曙のボケ!甘い
・ 芸能人  飯島愛…あ、まじイイ…

・我が家の家業は「袋物屋(鞄屋)」。二代目の私、家業を継いだ後、
  将来性が乏しいと、店をたたんでしまった…   かばん屋、いやんバカ!

2×(172+231) =13×62=26×31=(132+271)×2
  これも回文、 ママの意のまま よね!

【心と体の健康情報 - 208】
~子育て心理学~
「今、忘れ去られてしまったしつけ」

NHK金曜時代劇を見ていて、ふと思うのは、豊かになり、欲しいものが何で
も手に入る、幸せな世の中になって、日本の先人たちが大切に守り、受け継
いできた”何か”が失われ、消えてしまったように思うのです。

今の子供たちと、私たちの子供の頃との違いは、「家事を手伝わせる」という
ことがなくなったことです。私の小さい頃は、兄弟すべて、何らかの家事を分担
して生活していた。
私の家は、姑に両親、六人兄弟、合わせて九人家族でした。一時、満州から
引き上げてきた伯父家族四人を入れて13人の時があった。母は毎朝五時に
起き、台所に立ち、夜遅くまで店を手伝い、家事に追われ、一日中働き通しだ
った。
私の小学時代は、毎朝ひっついさん(かまど)に薪をくべて、2升釜でご飯を炊
くのが役割でした。「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣くともふた取るな」。
ご飯炊きは上手いものでした。八百屋へお使いに行く、配膳の手伝いをする、
庭掃きをする。何でもやらされました。

姉は、下の子の子守をする。妹は、板の間の雑巾がけをする。兄は、私や弟
たちの頭をバリカンで丸刈りにする。俵に入っている炭もよく切りました。兄弟
それぞれが家事を分担し、家族が助け合って生活していた。嫌だと思ったこと
はありませんでした。

オモチャを買ってもらったこともなく、うどん屋に入った記憶もない。一度だけ、
兄と姉と母親と私の四人で、芝垣へ海水浴に行ったことを覚えている。
私が高校のとき、大学へ行きたくても行けない同級生が何人もいた。修学旅行
は、家庭の事情に合わせて、九州組、東京組、自習組に分かれ、クラス全員
九州という訳にはいかなかった時代です。すべてが貧しかったのです。

食事づくりや、掃除・洗濯などの家事の手伝いを通して、知らず知らずのうち
に「気配り」や「人を思いやる」といった、人間として大切なものを身につけて
いったのでしょう。自分で体験したこと、身につけたことは、忘れないものです。

今の子供たち、勉強と部活がすべて。塾へ行き、おりこうに宿題をして、良い
通知簿をもらってくれば、親は大満足。家のことは何もしなくていい。そうや
って大人になっていく。
知識の詰め込みだけで育った子どもに、残るものは何もない。家の中のことは
何もわからない。親にはあれこれ要求するが、自分本位で、家のことは何一つ
手伝おうとしない。部屋は散らかしっぱなし…、でも、いっこうに気にならない。
そんな「大人になりきれない大人」になっていく。

そんな育て方をしておきながら、自らの子育てに疑問を抱くこともなく、我が
子の不始末を歎いている親が多いのではないでしょうか。
私の子どもの頃にあって、今は希薄になってしまったもの…。 「親子の絆」
「親や先祖を大切に思う心」「人に迷惑をかけない優しい心」などがそうだろう
か…。

2005年08月26日

アメリカの陰謀(2)

メルマガ配信を始めて丸3年。今日で300号になりました。
私が歩んできた人生。日本の敗戦、戦後復興、経済発展、貧乏な暮らしからの脱却、
そして豊かな時代へと、世の中が大きく変化していく中を歩いてきた。思えば幸福
な時代を生きてきたものです。

戦後60年、庶民の暮しが、これほど豊かに変化するとは…、平和な世の中が続
くとは…、医療が発達し、こんなに寿命が延びるとは…、誰もが自家用車を持ち、
海外旅行など、余暇を存分に楽しめる時代になるとは…。

敗戦の1945年から、逆に60年さかのぼると1885年。明治の帝国憲法も、
国会もない、文明開化の時代にタイムスリップしてしまう。
では、今から数えて60年後の日本、私の孫が私の年になったとき、日本は
どんな国になっているでしょうか?

・1871(明4) 廃藩置県
・1889(明22) 大日本国憲法発布
・1890(明23) 第一回帝国議会開催
・1894(明27) 日清戦争

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 91】
~歴史から学ぶ~
「アメリカの陰謀・パールハーバーの真実(2)」

日本軍は真珠湾の奇襲に成功した。アメリカを出し抜き、緒戦に大勝した日本
軍の戦略は、一見大成功のように見えた。が、事実はまったく違っていた。

「してやったり!」、ルースーベルトの思惑・戦略の通りに事が運んだのです。
日本に最初の一発を打たせ、それによって米国民を結束させ、世界大戦に参戦
することをもくろみ、そのように画策した。
「リメンバー・△△」の戦略を成功させる必要がある。そのためには、日本が先
に戦いを仕掛け、アメリカ人に犠牲者が出るよう、仕向けなければならない。

北岡伸一著「政党から軍部へ」より

 

真珠湾がきっかけとなり、第二次世界大戦に参戦した米国。米国民は愛国心
にかられ、戦場へと志願していった。1942年6月のミッドウエー海戦勝利を
転機に攻勢に転じ、1945年、日本との戦争に勝利し、日本を占領。太平洋
及びアジア地域に、多大の影響力を及ぼす覇権国になった。

占領後アメリカは、日本に米軍を駐屯させ、親米政権を樹立し、”自由”と”憲
法”を与え、教育制度を改革して思想教育を徹底し、米国に従順で、親米的
国家を作りあげた。
日本を”植民地化”して米国の支配下に置くという、開戦前の目的が達成され
たのです。

話は2002年。「リメンバー・9月11日」で、国民の支持を取り付けた米国は、
アフガニスタンに攻め入り、支配下に取り込んだ。次いでイラクの石油権益
を手に入れようと、又してもでっち上げの難癖をつけて、フセイン政権を倒し、
親米政権を樹立し、「自由と憲法」を与え、米軍を駐留させ、植民地化政策を
推し進めようとしている。

アメリカは民主覇権国家。国益を手にするとき、判で押したように「リメンバー
△△」で国内の世論を沸き立たせ、それから行動する。そのために密かに画策
し、事件を起こす。「相手をやっつけてしまえ!」という、世論を作り出すための
策略を巡らすのです。何も知らない国民と敵国を欺くことを繰り返してきたア
メリカ。
当時の国際法では、侵略戦争は犯罪ではなかった。そのためのだまし合いは、
どこの国の間でもやっていたこと。「だまされる国が悪い」というのが、国際政
治の常識だった。
                           
仇敵ソビエト崩壊後、アメリカが目指すのは、一千年の長きに渡って世界を支
配したあの「ローマ帝国」。ローマ軍は、圧政のもと貧しい暮しを強いられてい
る民族があれば、「自由と開放」を旗印に攻め入り、住民を解放し、ローマ人と
同等の市民権を与えるなどして、人心を掴み、全世界に支配地域を広めていっ
た。
ローマの法律を支配地に持ち込み、軍隊を駐留させ、ローマ人を移民させ、
その土地をローマの政治・文化圏に同化させていく。その一方で、宗教の自由
と自治を認め、占領住民の人心をつかむ。

このようにして、ローマ帝国の支配地域は、中東・アフリカ・ヨーロッパ全域に
拡大していった。ねらいは一つ、そこから上がってくる富を、ローマに集中させ
ることにある。
この二百年、米国がやってきたことは、あのローマ帝国のように、世界を一国
支配し、富をアメリカに吸い上げる、覇権国家になることにある…。
あれこれ歴史書を読んでいると、そのような構図が見えてくるのです。

2005年08月30日

教育とは…

ノエビアは毎年、全国上位にランクした優績支店のスタッフを全員、アメリカや
ヨーロッパの研修旅行に招待している。

昨年はラスベガスだった。出発の時から研修が始まる。一人ひとりにロスまで
の航空券が渡される。到着後のラスベガスまでの移動は、各自の自由。
二人一組で、レンタカーや長距離バスなど、何らかの手段で、指定日時までに
目的地に集合しなければならない。支店スタッフ揃っての移動は認められない。

全員到着後、どんなルートを、どんな交通手段で移動したか? いくら掛かっ
たか? 何故その手段を選んだのか? その方法は最善だったか? 
意思の伝達はうまくいったか? 何が障害となったか? …自分達の行動を
振り返ることから研修が始まる…

【心と体の健康情報 - 209】
~子育て心理学~
「教育とは…」

8/10NHK朝の連続ドラマの1シーン。小学校の男の子、夏休みにプール
で泳ぎを習っている。ある朝突然、プールへ行きたくないと、タダをこねた。
母親やお姉ちゃん、諭したり叱ったりしたが、ガンとして言うことを聞かない。
ついに父親が「バカなことを言ってないで、行きなさい!」と、怒鳴りつけてし
まった。少年は一人部屋に閉じこもってしまった。

しばらくして母親が部屋に行き、「何で行きたくないの? わけを聞かせて…」
と、親の考えを押し付けないようにして、訳を聴くことに終始した。
理由は「3mしか泳げないから…」だった。

そこでお母さん、「3mも泳げるなんて偉いじゃん! お母さんなんか、小学
生のとき、全然泳げなかったんだから… もう少し続けたら、もっと泳げるよ
うになるかもね! そうしたらお母さん嬉しい…」と、ほおづりした。
少年は水着を手に取り、喜び勇んで家を飛び出していった。

教育とは、与えるものではない。手取り足とり親切丁寧に教えようとしても、
本人にその気がなければ、無駄骨に終わってしまう。勉強部屋をあてがい、
沢山の参考書を買い与え、塾に高いお金を払って、環境を整えて子どもに
勉強させようとしても、学ぶ気がなければそれまでである。

どんなに恵まれた環境にあっても、自らの意思で、自ら体験し、自ら学び、自ら
努力して習得したものでなければ、身には付かないだろう。
本当の教育は、 「不便・不自由・不親切」でなければならないと思う。 学生たち
に不便と不自由と不親切を与えると、大変苦労する。その苦労が人間を育てる
のです。苦労することが、感動を呼び起こすのです。

このような教育こそ、今の子どもたちに必要なのです。何でも欲しいものを買い
与えるのは、子どもの為にはなりません。親のかまい過ぎは、子どもから、自ら
考える知恵を奪ってしまう。
成人した後も、親に依存し、自ら行動しようとしない、言われたことしかしない、
周りへの気配りが出来ず、社会集団に溶け込めない人間になってしまう。

松下政経塾の副塾長をしていた上甲 晃氏。今は、志ネットワーク「青年塾」の
塾長。後継経営者の育成に当たっている。その入塾方法がユニークで、常識を
外れている。
「青年塾」の入塾場所、交通の便利な駅前の一流ホテルで、空調の整った快適
で学びやすい環境と思いきや、岐阜県の山奥、交通の不便な片田舎。集合日時
は、郵送されてきた一枚の案内封筒のみ。時間厳守とある。

どこをどう行ったらいいものか? まず、親から事務局に電話が入ってくる。
「どうやって行ったらいいでしょうか? 地図をFAXして下さい」「前泊すると
したら、旅館を手配して下さい」
『送付した案内書にすべて書いてあります。方法は自分で考えて来て下さい。
時間厳守です』。事務局員はそれだけ応えて電話を切る。

息子さん、立派に成人しているのに、どうして親が心配し、構うのだろうか?
いつまでも子離れできない親。受講する本人が聞いてくるのならまだいい。
親離れできていない受講生が、研修にやってくる。

研修場の設営は受講生にやらせる。廃校を利用したため、教室の形になる
のに二日間かかった。草ぼうぼうで、分らなくなっていた学校への長い石段
も、見違えるほどきれいになった。皆でひたいに汗してようやく、研修所らしく
なってきた。生徒たちは、そこで最初の感動を体験するのです。

苦労が多ければ多いほど、学びも大きくなる。そのモデルが、つい最近まで
あちこちの小学校に立っていた二宮金次郎であり、近江商人の「てんびんの
詩」なのではないでしょうか。
子どもに苦労させるには、子育てに対する信念がいります。親も我慢し、子ど
もと共に辛い思いを共有する気がなければ、本物の教育にはならないと思う。

青年塾の合言葉は、「一番苦労した人が一番感動する」。
やっているときは、苦労を背負わされた人が一番損をしたように思う。しかし、
一番得するのは、苦労した人なのです。そのことを、身をもって学ぶのです。

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