私は今、月一回「論語」を学んでいる。学習時間は六時間。
ところで、学習したことがどれだけ身についたかというと、何とも心もとない。
受講後、記録したノートは閉じられたまま。翌月の講義の日になって、
「ああ、先月こんなことを学んだんだっけ…」と思い出す程度。それでは、
学んでいる意味がない。いくら熱心に受講し、記録を取っても、その後
たっぷり時間を掛けて、反復復習をしなければ、何一つ身につかないだろう。
頭の勉強をいくらしても、それ自体まったく意味をなさないし、身につかない。
先月5/27の経営研究会全国大会のメインテーマは”二宮金次郎”の
報徳の精神。そのとき配布されたレジメの表紙に、
「道徳なき経済は犯罪である。経済なき道徳は寝言である」
と印刷してあった。 その言葉をモジッて…
「理論なき実践は盲目である。実践なき理論は無力である」
私のメルマガのように、実践の伴わない理論は”空理空論”である。
毎号、盲目よりもましと思って、読んでいただければ幸いです
【心と体の健康情報 - 197】
~子育て心理学~
「学習したことが身につく、とっておきの方法」
今年一月の京都の勉強会の講師は、ユニチャーム(株)会長”高原慶一郎”氏でした。講演の中で、 最初から最後まで繰り返し話されたことは、学問をするときの「予習」と「復習」の大切さです。
日本の学校教育は詰め込み式。限られた時間に、与えられた教科課目を消化することに汲々としている。
学んだことを復習するのは、時折実施するテストと、期末試験。良い点数を取るための、詰め込み勉強の繰り返し。だから、
身につかない。
中学、高校と六年間英語を学んだが、全く使いものにならなかった。学んだことを繰り返し復習して、体で覚えさせないからだ。
ゴルフを例に挙げれば、いくら毎回素晴らしいレッスンを受けても、その後身体が覚えるまで繰り返し練習しなければ、
身につかないのと同じだろう。
ある小学校のクラスで、ずば抜けて勉強が出来る女の子がいた。 しばらくして、その子のお母さんが言った。 『○○ちゃん、お母さんはね、子供の頃貧しかったの。 それを聞いた娘さん、お母さんに恥をかかせてはかわいそうと、 『それが現在の成績につながっているのでは…』と、 |
先週の土曜日、「幸せプランニング3KM」の3回目講座が開かれた。
その時の課題が「私の歩み・自分史」の作成。書き込みに約30分頂いた。
私の1才から現在に至る自分史を、35歳、36歳…と記憶をたどって、書き込んでいく。
結婚した年は忘れない。が、ほとんどはうろ覚え。幾つの年だったのかまでは定かでない。B4用紙の記入欄が埋らず、
お手上げ状態…。
私の頭には、過去の様々な出来事が、記憶として奥深くにしまい込まれている。
ところがいざという時、どこに仕舞い込んだのか、取り出すことができない。
週二回のメルマガは、そういった薄れつつある記憶を呼び覚まし、番号札をつけて整理し、
残していく作業をしているようなものです。