憂うる日本の将来
先週末の二日間、静岡県掛川へ出かけて、今の日本に一番求められるであろう
「報徳の精神」を学んできた。
江戸時代、武士・町人・農民を問わず、子供たちに”四書五経”を学ばせたのは、
”人生いかに人間らしく正しく生きるか”という、「人間学」を修めることにあった。
当時の学問には、「本学」と「末学」があった。四書五経といった「本学」を学ぶことは、
”人間学”を学ぶことにあり、ふだんの生活に必要な”知識や技術”は、「末学」で学んだ。
今の時代は「末学」が重視され、人よりどれだけ偏差値が高く、技能が優れているかといった、人間の価値を、数値・数量で推し量る社会である。
「本学」を学んでも、普段の姿にはあまり表れてこない。人生の岐路、苦悩の時に、その学びの真価が発揮される。
「本学」は、まだ物心つかない幼い頃から、家庭で繰り返し「しつけ」を通して教え込み、身体の中にすり込んでくものである。
自我がほぼかたまり、人格が形成された大人になってから学んでも、なかなか身に付かないものである。
【心と体の健康情報 - 195】
~幸せな人生を歩むために~
「憂うる日本の将来」
脱線転覆事故から、次々と表ざたになる、JR西日本社員の呆れた言動。
好きだからというだけで、少女に手錠をかけ監禁し、相手の人格や命の尊厳を平気で踏みにじってしまう若者。
いったい何時の頃から、日本人はこんな恥ずかしい行為を、平気でするようになったのでしょうか?
以下、元松下政経塾副塾長「志ネットワーク」の”上甲 晃”氏の講演を聞いて
思ったことです…。
「自分の人生で、
最も大切にしなければならないものは何か?」と問われたら、
山本さんはどう答えるでしょうか?
生きる原点というべきものを、どのようにして学び、身につけていけばいいのでしょうか?
「人は何のためにこの世に生まれてきたのか?」
「何のために生きるのか?」
「何をこの世に残して 死んでいくのか」
といったことを考えるとき、「宗教」「道徳」「歴史」の三つを学ばずして、
その精神を養うことは出来ないと、上甲氏は語る。
「宗教」や「道徳」「歴史」を学ばない人間が、自ずから求め、目指すものは唯一、「金儲け」「立身出世」 「地位や名誉」である。戦後六十年、日本人がひたすら追い求めてきたものではないでしょうか。
それは「野心」の一言につきます。「もっと出世したい」「もっと金儲けしたい」
「もっと会社を大きくしたい」「いい車に乗りたい」「大きな家に住みたい」。
いずれも、自らの幸せと利益のためのものであって、人のために何かお役に立とうというものではない。
戦後の教育を振り返ってみると、中学も高校も進学予備校と化している。
先生は、他の中学、高校より優秀でありたいと願い、学校間の序列と名誉を守るため、子供たちのお尻を叩く。
生徒はクラス仲間を仮想競争相手に、学年順位を上げようと、懸命に頑張る。
生徒のお母さんは、我が子のことしか目に入らず、子供を塾へと追い立てる。
誰もが自分のために頑張るが、人のお役立ちになることなど、考えもしない。
世のお母さん方が描く理想は、子どもの個性を伸ばすことより、少しでも学力の高い学校に進学させ、 一流の会社に就職させること…。それが我が子の幸せにつながると、信じて疑わない。
そういった教育現場の在り方が、子供たち一人ひとりの能力に合わせた教育をする余裕を奪い、
子供たちの精神を健全に育て、発達させる場を遠ざけてきたのです。
そういった教育環境で育った私達。その私たちに育てられた息子や娘たちが、次の世代を担う孫たちを育てている。だから、
日本の将来が心配なのです。
私達親は、子供達に「人間として生きるための基本とは何か」
ということを教えてこなかった。そうやって育った息子や娘たちが、人間として、社会人として、 正しく生きていくために、
どんな教育を我が子にしようとしているのだろうか?
極めて難しい問題です。子育てに対するビジョンもなく、躾けらしい躾けもせず、ただ可愛がるだけ、甘やかすだけ。それでは、
青少年の犯罪件数は増えこそすれ、減ることはないでしょう。
凛々しさに欠け、道徳心、慈愛の心が欠落し、自分本位で、周りにはまったく無関心の若者たち。 そんな若者たちを育てた私達。責任の多くは私達にあるようです。子ども達の行為をあれこれ批判する前に、私たち自身が、 自らの生き方を敢然と見つめ直す必用があるようです。