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戦後教育かせ抹殺された二宮金次郎

■二宮尊徳の死生観がよく表れた「二宮翁夜話」の一節

「人は生まるれば必ず死すべきものなり。
死すべきものということを、前に決定すれば、
活きて居るだけ日々利益なり。これ予が道の悟りなり。

生まれ出ては、死のあることを忘るる事なかれ。
夜が明けなば、暮るるという事を忘るる事なかれ。」

物心つくころから常に、人のため、村のため、国のため、
懸命に働き続けてきた、尊徳翁の思想がここに表われている。

【心と体の健康情報 - 193】
~歴史から学ぶ~
「戦後教育から抹殺された二宮金次郎」

私の子供の頃、少し田舎の方へ行くと、小学校の校庭に薪を背負って本を読んでいる二宮金次郎の銅像が立っていた。 ところが、学校で教わることはなかったので、名前は知っていても、何で偉くなったのか知らないまま大人になった。数年前 「致知」に連載され、日創研がビデオを制作して広く啓蒙したりして、ようやく二宮金次郎の偉大な諸業を知ることとなった。

ほとんどの方はご存知でしょうが、改めて金次郎の生い立ちを書き表してみました。

金次郎は、1787年相模国、現在の小田原に生まれた。五才のとき付近の川が氾濫して、 二宮家の田畑はほとんど流出した。その窮乏の中で、金次郎が十四才と十六才のときに相次いで両親を失う。 二人の弟は母の実家に預けられ、金次郎は伯父の家に寄食し、働いた。

学問好きの金次郎は、洪水跡の荒地に菜種を蒔き、それを油屋に持っていって油と交換し、 夜なべ仕事が終わった後も、寝る間を惜しんで勉強した。
ところが、伯父から百姓に学問は無用と、灯明を点けて本を読むことを禁じられてしまった。その後も隠れて、 夜十二時に寝て朝三時に起き、月明かりで読書し、蒔を背負った道すがらも、寸暇を惜しんで勉学に励んだ。

上田三三生著「日本の系譜」より

薪を背負う道すがら読んでいる書物は「大学」である。儒学の「四書」、つまり「大学」「中庸」「論語」「孟子」 の四書を、幼少のころから学ぶのが、当時の習いであった。
私も縁があって、昨年から六十の手習いよろしく、「論語」「大学」「中庸」のさわりを習っている。
私が学生だった頃の教育は、古いものはすべて悪。戦前の教科書に載っていた日本の歴史上の偉人たちは、一掃されてしまった。
で、つい最近まで、二宮金次郎が教科書から削除されたのは、占領軍の命令によるものと思っていた。
ところが、占領軍は逆に「尊徳は日本におけるリンカーンである。新生日本は、二宮尊徳に学ばなければならない」と、 奨励していたという。意外でした。

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