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運命は変えられる?

言葉遊び、「畳語」がふんだん出てくるのが落語の「りん廻し」。
ガラにもなく風流の道を志したハチ公に、横丁のご隠居があれこれコーチする。

「山王の 桜に猿が三下り 合の手と手と 手手と手と手」
「りんりんと りんと振りたる小なぎなた 一と振り振れば 敵はちりりん」
「りんりんと りんと咲いたる山桜 嵐が吹けば 花がちりりん」
「りんりんと 綸子(りんす)や繻子(しゅす)の振り袖を 娘に着せて
ピラリシャラリン」

と、手当たりしだいに披露するご隠居をさえぎって、ハチ公も一句…

「りんりんと 淋病やみは痛かろう 小便するたび チョピリチョピリン」

・私(吉村)も負けじと一句    
「ちりりんと 振れども振れども チョピリチョピリン」  (^-^;

【心と体の健康情報 - 154】
~幸せな人生を歩むために~
「運命は変えられるか?」

「人生とは何だろう」。人の一生には運・不運が付きまとう。思わぬ運・ 不運に人生がほんろうされる。それと並行して、人生ドラマを構成するもう一つの大きな 要因に 「因果の法則(原因があるから結果がある) があります。

日々何かを思い描き行動すれば、必ず「業(この世で為す善悪の行い) が生まれます。その「業」によって生ずる様々な現象・結果が、 運命とからみ合い、人生をおりなすのです。

ここで疑問に思うことは、「運命は変えられるか?」ということです。未来が予測出来ない以上、結果からしか判断できません。
東洋哲学・人間学の”安岡正篤”師は、「運命は善き想い、 善き行いによって変えることができる」と、「立命の学」の中で、 中国の明の時代の遠了凡(えんりょうぼん)の物語を取り上げて説明しています。

遠了凡の父が亡くなり、母は息子に、 父の跡を継いで医者になってもらいたいと思っていた。そんなときに、老人が町にやってきた。
老人は、息子をしげしげと見て、「この子は医者にはなりません。科挙(かきょ)の試験に合格して、 偉い役人になる。」と言い、「来年には村の試験に、何人中何番で合格し、再来年には、こういう試験に受かり、 そして科挙の試験には…」と、これからの人生を事細かに占う。
「将来は地方の町の長官になり、結婚はするが、子宝にま恵まれません。そして、 53歳に往生するという運命です」

遠了凡はその通りの人生を歩き、地方の長官に任じられた。そして、人間進むも退くも、出世の遅い早いも、 運命で定められていることだ。いくらやきもきしても、なるようにしかならぬと、固く信ずるようになった。

ある時、高名なお寺を訪ね、参拝して三昼夜坐禅を組んだ。すると、お寺の老師が舌をまいて、 「若いのに素晴らしい。これほど一点の妄想もなく澄み切り、悟りを開いた人には会ったことがない」と言った。

遠了凡は、「何も修行などしておりません。運命が決まっている以上、高望みも悲しむこともしません。 ですから私には、邪念も曇りもないんです」と言った。
老師は驚いて、「心に曇りがないのは、人生をあきらめただけで、 人生を極めて心を美しくしたのではなかったのか…。それでは余りにも哀れだ」と言った。

老師は続けて言った。「運命というものは、決して定まったものではない。天命は自分から作り、 福は自分から求めて手にするものだ。しかるにあなたは、二十年この方、他人から占定されて、 自らの努力で変化しようとしなかった」

「だが、案ずることはない。徳を積めば、有名にも、お金持ちにもなれる。 今から人のために善いことを実行しなさい。あなたの運命は変わる」と説いた。
つまり、自分から自発的に立命をもって修行すれば、運命が変わると説いたのです。
それからの遠了凡は、毎日欠かさず善いことを念い、実行した。そうしたら、 生まれないと言われていた子供を授かり、53歳で死ぬはずが、70余歳まで生きた

安岡正篤師は、この話を通して「善きことを重ねると、因果の法則が働き、 運命は変えられる」と説いているのです。

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