元気な時に死を考える
■私の言葉遊び。同じ文句を並べた「畳語」の続きです。
・喜び上手な人のところに、喜びごとが集まってくることを詠った
「喜べば 喜びごとが喜んで 喜び集めて喜びにくる」
・”冬のソナタ”の心境でしょうか…
「心ぞと 心にしれど 心より 心まどわす 心なにせん」
・次の二つはおまけ…
「京の三十三間堂の仏の数は、三万三千三百三十三体あるという」
「狂言師が京から今日来て 今日狂言して 故郷の京都に 今日帰る」
・私の作。 同意語を組み合わせると、以外と簡単に作れます。
『仙人が優れた仙人を 千人の仙人の中から一人の仙人を
選任しようとしたが 仙人が千人の仙人の中から 仙人を一人
選任することは 千に一つもむずかしい』
【吉村外喜雄のなんだかんだ 第37号】
~幸せな人生を歩むために~
「可能性思考/元気な時に死を考える」
人は誰しも「死」を恐れる。だから誰も、死について真正面から考えようとしない。
何れ必ず死ぬときがくることへの恐れからか、そのことに触れまいとする。
何れ我が身に降りかかってくることだろうが、今は話すことも、考えることも忌まわしい。そうやって、
大切なことを先送りしてしまう。
だから、突然その時がやってきたとき、心の備えが出来ていないから、うろたえ、嘆き、恐れることになる。
壬生の義士のように、武士たるもの日頃から、いざというときの切腹の覚悟ができている。太平洋戦争、
ゼロ戦で散っていった若者も、覚悟ができていたから、みんな笑顔で飛び立つことができたのでしょう。
一般に「死」は忌まわしいもの、暗いものとして遠ざけてしまいがちです。この世に生を受けた以上、もっと自然に、
そして真剣に「死」というものに向き合う必要があるようです。
そもそも人は「他人の死」を悲しみこそすれ、それが原因で恐怖心に襲われることはない。しかし、自分の死を目前にすると、
恐れおののくことになる。
死を恐れるから生命は、その細胞の一つひとつが、全力で生きようとするのです。
「死」は決して怖いものではない。怖いと思う原因の一つに、死んだら何もかも消えてなくなる。灰になってしまう。
無になってしまうとの思いがあるからでしょう。
だから、怖いのです。
浄土宗では、死んだ後に極楽浄土へ行くことができ、禅宗では、来世もう一度この世に生まれ変わることができる。
母親の胎内から生まれてきたのだから、またその故郷に帰るのだと考えれば、死ぬことが怖くなくなるかもしれない。
「死ぬ間際ではなく、いま元気なときに、死のことをどのように受けとめるか?」
考えておくことです。自分を納得させるものを持っておくことが大事でしょう。
死んだら何もかもそれでおしまいと思うのか? 死は永遠の別れと思えば、怖いものになる。死後も魂は生き続けると思えば、
心の拠りどころになるだろう?
死後の世界を信じるか…? 信じなくても、この世に何かを残し、人生の使命を果たした満足感で死んでいくか…。
心の拠りどころ如何で、死というものへの心構えが、天と地ほど違ってくる。
死についても、プラス思考で考えるようにしたい。可能性思考を高めていきたい。年をとるにつれ信心深くなるのも、
そういった想いの現れでしょう…。
文中、五木寛之の「元気に生きる知恵」から、一部抜粋があります