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2004年04月 アーカイブ

2004年04月02日

狩猟民族と農耕民族-2

■国際テロリストが、日本で爆破事故を起こしたら…

スペイン・マドリードで起きた、列車同時爆破事件の二日後、スペイン全土で、雨の降る中を、国民の四人に一人、 一千二百万人規模のデモ行進があった。
国民は、「テロ」に対しての怒りを露わにし、「バスタ、ジャー!(もう、たくさんだ)」「テロをやめろ!」と、 き然たる姿勢をもって対決する意思を示した。

国民が危機に瀕したとき、一致団結して立ち向かおうとするのが、世界どこの国にも見られる光景です。
国際テロ組織アルカイダは、声明の中で、米国に加担する英国、イタリア、日本を標的にすると名指ししている。
もし、日本で不幸にもこのような大事件が起きたら、私達日本人は、スペインの人達のように、全国規模で一夜に三千万人もの人が、 自然発生的に、仕事を中断してまで、怒りのデモ行動を起すだろうか?

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第25号】
~日本人のアイデンティティー~ 
「狩猟民族と農耕民族(2)」

一頃、日本人異質論がマスコミで話題になった。農耕民族と狩猟民族の気質の違いが、考え方や問題解決の違いとなって、 随所に現れてくるのです。
肉食が主体の民族は、ライオンのように縄張り意識が強く、独立独歩、自己主張が強い。
一方、日本人のアイデンティティは「」。草食動物の牛や羊のように、 集団で群れることが多く、人のために自分は一歩下がることを美徳とする民族です。

ロサンゼルスの日系人は、クリーニング業を営んでいる人が多い。その他中国人などのアジア系、 メキシコ人などの中南米系の人達も、クリーニング業を営んでいる。
アジア系は勤勉で仕上がりもいい。顧客の評判がいい。それを嫉んだ中米系の人たちが、日本人と、韓国人の店に石を投げ、 ウインドゥガラスを割ったりして騒いだ。そのときの日本人の対応の仕方や、考え方が、よその民族とちょっと違ったのです。
韓国人は国境が陸続きで、他民族の支配を甘んじて受け入れてきた民族。自分達を守るために「やられたら、やり返す」。
大勢が手に手に獲物を持って、「もし今度同じことをしたら、絶対許さない」と、相手の居住地近くまでデモをかけ、 相手を牽制する行動に出た。

一方の日系人は四方を海に守られ、異民族に犯された経験のない農耕民族。
その夜集まり、今後の対応策を話し合った。出た結論は「相手の挑発に乗せられたら、事は更にやっかいなことになる…。 しばらく様子を見よう」。
翌朝、何事もなかったかのように割れたガラスを片付け、身をすくめてほとぼりのさめるのを待った。

つい最近の、尖閣領土問題に対する日本政府の姿勢も同じです。「相手国を刺激するような言動をして、 事をこれ以上荒立ててはならない。ほとぼりが冷めるまで様子を見よう…」と。 

農耕で生きてきた日本人は、日照りや冷害、台風や洪水、地震など、突然襲ってくる天変地変で、 それまで積み上げてきた苦労が、一夜で無に帰することがしょっ中で、怒りをぶつけるところなどどこにもない。 土地を離れて他所へ移り住むこともままならず、悲しみにくれていても仕方がない。又、一からもくもくと体を動かして、 やり直すしか方法がなかった。

何千年と同じことを繰り返す内に、じっとこらえて我慢する生き方が、遺伝子に組み込まれてしまったのでしょうか。

2004年04月06日

日本人が日本人でなくなった?

春になり、中国特需などの影響で、景気が回復しつつあるようです。そのせいか、二月の個人消費が前年度比5%アップしたという。

ところが、その発表に異論を唱えている評論家がいる。今年はうるう年、一日長い。それだけでも指数が3~4%伸びる。 しかも29日は日曜日であった。
二月という月は、その他の月よりも2日から3日短いため、日曜日も4回が普通。ところが、今年の二月は日曜日が5回あった。

日曜日は、デパートやショッピングセンターがお買い物客でにぎわう。
平日の3~4日分の売上がある。そんなわけで統計上、前年同月比5%消費が伸びてあたり前。 決して景気が回復して出た指数ではないと言うのです。
もしかしたら、逆に1~2%、前年より悪かったのかもしれないと言う。

ものを見るときに、固定観念に囚われていて、同じ方向、同じ観点からしか見ていない場合が多い。普段、会社の中から外を見て、 あれこれ判断しているが、一歩会社の外へ出て、外からじっくりと会社を見つめてみると、今まで見えなかったものが、見えてくるかもしれない。

【心と体の健康情報 - 140】
~日本人のアイデンティティ~
「日本人が日本人でなくなった?」

(株)アシストの代表取締役はビル・トッテン。米国人です。米国人から見た日本。
なるほどと納得できる切り口で、日本人を分析しています。

聖徳太子の時代から1990年頃までの長い歴史、 日本人の心には、 倫理道徳が存在し、 そしてその倫理や道徳によって日本人が守られてきた。
しかし、今の日本、すなわち日本人には、倫理や道徳が無くなってしまっている。
これは、日本人がいなくなったということです。今いるのは、日本人にそっくりの日本人がいるということです。

ところが、困ったことに、そのそっくりの日本人が、自分は純粋な日本人だと信じて疑わないことです。 百年も昔にアメリカ大陸へ移民した日系人の三世・四世は、論語を知らない。 仏教を知らない。武士道を知らない。 神道を知らない。 日本の古典を読んだことがない。 そういった日本人のそっくりさんと同じになってしまったのです。
古来日本人が学び、受け継いできた四書五経や、 仏教思想などの学問は、戦後教育で途絶えてしまった。戦前、 そういった教育を受け、身に付けた人達も、1990年頃を最後に、政治、経済の第一線から退いていった。 と同時に、倫理や道徳感の欠落した社会になってしまったのです。

経営者も、政治家も、国民も、子供たちも、社会のすべてから倫理感が失われ、消えていった。 経済の活力が失われ、企業犯罪、社会犯罪が増加し、麻薬、失業、企業の破産が増えていった。 あの善き日本が失われてしまったのです。

そういった日本人を象徴した事件が、雪印や佐藤観樹議員の秘書給与詐欺事
件でしょう。倫理観の欠如、自らの非を潔しとしないなど、その言動に批判噴出
したが、人ごとではなく、今の社会に生きる、私達すべてに当てはまる出来ごと
ではないでしょうか。

日本人が日本人でなくなったのは、国旗を掲げず、国歌を歌わず、自国の宗教・ 思想をおろそかにし、歴史を学ばず、二宮金次郎など、古き善き賢人から学ぼうとしない。
そのくせ、欧米人にあこがれ、欧米文化なら何でも受け入れる国民なのです。
欧米企業の真似をして、経営合理化の名のもとに、社員を能力で評価して差別し、都合が悪くなれば、 社員の首を切ることしか考えない。
何事も米国流のやり方が正しいと思い、アメリカに同調し、自国を守るこすらも
米国任せ。で、敗戦国で自立していないのは日本だけ。ドイツも、イタリアも、自立国家としてとっくの昔に、 主権を回復している。

古来日本人が受け継いできたアイデンティティーは、「みんな仲良く」です。
一個人の幸せよりも、共同体の中に身を置き、和を大切にしてきた民族なのです。
地主と小作の間柄は一つのファミリー。収穫の後の村祭りは、みんな一緒になって五穀豊穣を祝った。
あの貧しかった江戸時代の農民が、同じ村の地主庄屋を相手に氾濫を起こした記録など、あまり聞いたことがない。

今の日本、古来から受け継がれてきた、儒教思想、仏教思想、日本の古典などが、 私達の体内から消えてしまったということです。それは、日本の文化、日本人の奥ゆかしさ、礼節などがどこにも存在しない、 「損か徳かだけでモノを判断する社会」になったということです。

2004年04月09日

狩猟民族と農耕民族-3

いよいよプロ野球のシーズン到来。
今年は巨人か?それとも阪神か? 三人に一人が巨人フアンの中で、アンチ巨人の私。でも、初っ端の阪神戦での三タテは、 優勝を争う相手だけに痛い。過去に、スタートで巨人が三タテをくらったケースは何度もあるが、優勝することへの影響は、 全く関係ないようです。

私は海や山が好きで、四季折々アウトドアーのスポーツを楽しんでいます。 しかし、年とともに運動量が減ってくる。ゴルフやスキー、 スキンダイブ、山菜採りなどは、健康のためにも、休日を楽しむためにも手ごろで楽しいものです。

多忙で、運動をする時間が無いときは、仕事が終わった後や、土曜の夕方などに、ちょこっとプールに出かける。一時間くらいいて、 1キロくらい泳いで帰ってきます。
県外へ出かけるときも、水泳パンツを忘れないようにしています。



【吉村外喜雄のなんだかんだ 第26号】
「狩猟民族と農耕民族(3)」

日本人の問題解決の仕方が、諸外国から見たら異質なのです。日本人のアイデンティティは「和」。群れ全体の考え方、 行動に逆らってまで、自己主張するものがいない。「長いものに巻かれろ」。コトを荒立てないことが良いことなのです。 何か違ったことをするときは、群れの中での根回しが大切になってきます。
それと、異論が出たら「善処する」という言葉で、問題を先送りしてしまうのが、日本人の不可解なところなのです。

新撰組にも出てきましたが、ペルーが黒船に乗ってやってきて、開国を迫った時の江戸幕府の対応が、まさにそうです。 「善処する」と約束しながら、問題をああだ、こうだと先送りしようとする。あれから百数十年、 諸外国に対する政府の対応を見ていると、本質は何も変わっていないようです。

前号でクリーニング騒動の話をしましたが、もう一つ、こんな実例があります。
米国からの自由化の要求が強まっていた1980年代、日本と韓国は、政府間交渉の末、 オレンジを米国から輸入しなければならなくなった。国内の柑橘農家が最も心配したのは、オレンジに付いてくる害虫です。 害虫が日本に入ってきたら、大打撃をうけるのは柑橘農家です。

更に、貨物船で運ばれてくる途中で腐ることが心配です。そこで米国から輸出する直前に、防虫・ 防腐液の中にドップリ薬浸けにした。健康より、商品価値の方が大事です。米国の人々の口に入ることはありません。 船で輸送中に、表面に付着した薬が、皮の中に浸透していきます。
東京都の保健所の医者が、オレンジは危険と問題にした。マスコミが騒ぎ、一時デパートや大手スーパーの店頭から、 オレンジが姿を消した。

日本の政府は動きませんでした。お上が動かなければ国民は動きません。一年もしない内に、 その薬漬けのオレンジが再び店頭に並び、庶民の口に入るようになったのです。
一方の韓国も、政府は沈黙したままでした。日本での騒ぎを聞きつけて、騒ぎだしたのは大衆です。米国の大使館に押しかけ、 星条旗を燃やすなどして、大騒ぎになった。米国は、韓国へのオレンジの輸出を見合わせたのです。

狩猟民族を相手にするには、言うことをはっきり言い、自分の立場をしっかり相手に伝えなければなりません。そうしないと、 相手の思うようにされてしまいます。
イラクに侵攻して根絶やしにしようとするアメリカ。それに立ち向かうアルカイダのゲリラ。いずれも狩猟民族同士の戦いです。 「やられたら、やり返す」。人の言うことなど聞こうとしません。イスラエルとアラブの対立もそうです。

そんな両者に、農耕民族で「みんな仲良く助け合い」を価値観とする日本人が、いくら国連中心の平和を訴え、 話し合いの解決を叫んでも、聞いてくれるはずがありません。
北朝鮮もそう。断固とした態度で一歩も引かない厳しさで臨めば、問題は解決するでしょうが、「みんな仲良く」 の農耕民族日本人には、出来ない芸当です。

2004年04月13日

足るを知らぬ日本人、今こそ教育勅語

毎月一回京都へ出かけ、哲学者で人間学の権威安岡正篤師の教学にふれることになった。 先週その第二回目を受講した。
「四書」の中の「大學」と「論語」についても、合わせて教わることができるのがいい。     

■安岡正篤 【百朝集】五十八「六中観
死中活有り   死んだつもりで頑張れば、生きる道も見出せる
苦中楽有り   苦労のないところに楽しみはない
忙中閑有り   忙しい人の方がひまを見つけて、人生を楽しんでいる
壷中天有り   現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地
意中人有り   理想的人物像を心の中に持っている
腹中書有り   断片的な知識ではなく、しっかりした哲学を腹の底に納めている

安岡正篤師は、平素からこの言葉を大切にして、如何なる場合も決して絶望した
り、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないよう心がけていたという。

【心と体の健康情報-141】
~子育て心理学~
「足るを知らぬ日本人、今こそ教育勅語」


以下、政治評論家 細川隆一郎氏の「だまっちゃおれん」から一部抜粋したものです。
今、日本の国は、根本から立て直さなければならない時期に来ているようです。
一つには、国内の社会情勢の不安定さがある。少なくとも日本国家は、一人ひとりの日本人によって社会が構成され、 そこに住むゆるぎない家族の絆によつて構成されている。

しかしながら、最近のマスコミ報道によると、その家族の絆が崩壊している様を、しばしば見うける。
十年以上前であったが、東京・田園調布における事件は、衝撃的なものであった。確か十六、七歳の少年が、 父親を金属バットで殴り殺すという大事件だった。あの報道に接した日本人は、親子関係がそこまで落ちたかと、 呆然としただろう。私の子供のころには、絶対考えられなかった事件であった。

今日では、親子、夫婦、兄弟の絆はボロボロになつてしまい、日々の報道がそれを知らせている。少々の事件に対して、 今の日本人は鈍感になってしまったような気がするくらい、ひんぱんに殺傷事件が起きている。

そんな今の時代だからこそ、明治二十三年に発布された、あの懐かしい「教育勅語」が必用なのです。教育勅語の中には、 次のような人間の持つべき徳目が記されている。
「夫婦相和し、兄弟仲良く、朋友相信じ、自らは他人に対し謙虚であり、学を修め、業を習い、 もって知能を啓発し…」。これを当時、小学五年生の頃に、先生から繰り返し叩き込まれたのである。

戦後、こういった教育がまったくなされなくなり、親を親と思わず、子を子と思わない様は、日本人の精神の荒廃と堕落が、 底の底まで落ちてしまったとしか言いようがない。教育勅語に掲げてある一つひとつの徳目は、人間らしく生きていくのに、 最低身に付けなければならないことであり、人類共通のものなのです。

例えば、既に崩壊してしまったが、ソビエト連邦の”学則”に、日本の教育勅語の引用があったことを、 日本の左翼の先生方はご存知ないようです。
昭和二十年、マッカーサー占領軍総司令官は、日本の学校で教育勅語を禁止する旨、指令を出した。

日教組は大賛成。政府は無策。かくして日本人は、欲望のみに生きる、倫理感の欠如した民族になり下がってしまった。
これを直すには、”足るを知る” という精神を学ぶことにある。それによって、 少しでもモラルなき国家日本を改革しなければ、日本は国際社会の笑いもので居続けなければならない。

2004年04月16日

■ことば遊び「畳語」 から

・お酒飲みには、
『お酒のむ人花ならつぼみ 今日も咲け咲け(酒酒)あすも咲け(酒)』

・飲みすぎをたしなめるのには、
『一杯は人酒を飲み 二杯は酒酒を飲み 三杯は酒人を飲む』がある。

『姦夫と姦婦が喧嘩して 姦夫が姦婦を姦婦といえば 姦婦も姦夫を姦夫という』
このように、同意語を使って文章にしていくと、以外と簡単に面白いものが作れます。

先週、高台寺から清水寺へ向かうとき、名もない小寺の玄関横の伝道掲示板に書かれていた言葉。 ”ちる” が八つも歌い込まれているのが面白い。

『花が散る 花が散る 散る散る落ちる 舞い落ちる 落ちる 舞い落ちる』


  



 

 

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第27号】                      ~日本人のアイデンティティ~ 「桜」

三月の下旬、桜のつぼみが日一日とふくらんでいくのを見て、春のおとづれが近いことを知る。そして、 あっという間に春が訪れ、桜が咲き、そして散っていった。
日本の素晴らしさは、美しい山や海に囲まれた自然が、四季折々にその姿を美しく変えていくことにある。

日本を象徴する桜。桜は日本の国花である。桜ほど日本人に愛される花はない。
春になると、桜の木の下でお弁当を広げて、お酒を飲む。こんな光景は世界広しといえど日本だけでしょう。
それ以外にも美しい花はいろいろあるが、梅やつつじ、チューリップを見ても、花を見ながら一杯やろうとは思わない。 なぜ日本人は、桜が満開になると浮かれるのだろうか?
日本は稲作文化。農家では、桜が咲く時期を見て、稲を植える時期を知り、桜の散り具合を見て、 その年の米の出来具合を占ってきた。満開の桜に神様が宿ると信じられ、お酒などの捧げ物をして豊作を祈った。

庶民が花見を楽しみにするようになったのは、江戸時代からで、それまでは、秀吉が醍醐寺で観桜の宴を開いたように、 上流社会の文化であった。
八代将軍吉宗の時代になって放火が多く発生した。吉宗は人心を安定させるために、花見を奨励したと言われている。

私にとっての桜は、中学、高校、就職と、人生新しく門出するときに、必ず目にする象徴なのです。結婚し子どもが産まれ、 子どもが成長し、小学校、中学校と入学式に伴って行く時も、学校の桜が出迎えてくれる。春爛漫、人生の新しい門出は、 桜とともにやってくるのです。

古来、散り際のよさで愛されてきた桜。太平洋戦争では、国のために散っていった多くの人たち。つかの間に咲き誇り、 散っていく桜とが、ダブって見えたのでしょう。
「貴様と俺とは同期の桜♪ 同じ兵学校の庭に咲く…♪」。同窓会などで、互いに肩を組み歌うとき、 日本人であることの喜びに浸る。

桜は日本人のアイデンティティーなのです。


 

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2004年04月20日

イラク人質事件

■西田幾太郎博士

私が育った自宅から数分の所に、第四高等学校(現在の中央公園)があった。
小学生の頃、学校前の七ケ用水の生垣の穴から校庭にもぐり込んで、よく遊んだものです。
その四高に、郷土が誇る哲学者(宇ノ気出身)、西田幾太郎博士(1870~1945)がいる。 西田博士は金沢一中から四高に入学したが、在学中に義務づけられた軍事教練に反対して、退学処分になっている。 そのあと帝大を出て再び四高に戻り、やがて教授になり、後に京大で教鞭をとった人です。

■民主主義国家になる前、軍国主義が台頭していた頃の博士の言葉です。

民主主義が保障する「自由」「平等」「博愛」。 この思想を社会に実現するためには、「自由には責任」「平等には差別」「博愛には厳罰」という反対概念が、 社会に広く認知されていなければ、民主主義は単なる愚かなる民衆へと堕落していくだけ

と説いている。今の時代を見透かしているような、意味深い言葉てす。

【心と体の健康情報 - 142】
~歴史から学ぶ~
「イラク人質事件」

前にも書いたが、日本がアメリカと戦争して敗戦国となり、占領軍がやってきた。戦時中、アメリカに徹底抗戦を叫び、 竹やりでもって国民総玉砕を叫んだ軍部が、沖縄で住民を巻きこんで、悲惨な結末を迎えることになった。

ところが原爆が落とされ、主要都市が焼け野原になって終戦を迎えた本土では、 米軍に徹底抗戦し、ゲリラ戦を挑むものはいなかった。お陰で、終戦と同時にいともあっさり平和な世の中が戻ってきた。

六十年前の日本と同じく、米軍との戦いに破れ、占領されたイラク。終戦後、 旧軍隊と大量の武器は散りじりになったものの、イラク国内にそのまま温存された。その残った組織がゲリラとなり、 いたずらに米軍に攻撃を仕掛け、占領軍の殺りくを繰り返した。
こういった行為がなされなければ、この国も又、平和裏に戦後統治と、治安維持がなされ、復興、 そしてイラク人政府への禅譲が、とどこおりなく実施される筋書きになったはずである。

米軍が理由もなく、イラク人を殺りくしたりしないことは無論のことである。しかし現実は、 やられたらやり返す。意味のない憎しみだけが双方に膨らんでしまい、押さえようがない状態になってしまった。

以下”自由には責任”という観点から、4月19日(月)読売新聞「編集手帳」 を転載します。

イラク戦争開戦前の昨年二月、イラクや周辺国の日本大使館員は、日本から来た 「人間の盾」志願者に悩まされていた。空港などで「イラクは大変危険だ、退避勧告が出ている」と説得しても、 「心配無用」と無視される。米国の武力攻撃を止めたいという「善意」の日本人は百人を数えた。

空爆後も、バクダッドの変電所や浄水場には十人が残る。一方、出国支援を求めた人を、 隣国シリアの大使館員が国境まで出迎え、救出した事例もあった。
結果的に「人間の盾」で命を落とした人はいなかった。そのことに安堵しつつ、大使館員には疑問も残った。

確かに、邦人保護は外務省の仕事だ。しかし、自らの「信念」で活動する人まで保護するべきなのか?  欧米各国では「報道関係者と人間の盾は、自己責任原則だ」とし、入国した人数すら把握していなかった。
それから一年…。イラク人を助けたいという「善意」の日本人が、 大使館の目の届かないうちに危険地域に入っていた。

「善意」や「信念」は状況や相手によっては、「独善」に陥りかねない。一連の人質事件は、 改めてそれを証明している。「信念」の人には今後、強制的に規制するよりも、 自己責任を徹底させるべきだろう

今回の事件で、「イラクに自衛隊を派遣した結果起きた事件である」というふうに、 問題のすり替えをすべきではないと、新聞は一様に論説している。
無事救われたから良かったものの、もし殺されていたら、日本の世論は政府の責任を追求するのだろうか?

今一度、西田幾太郎博士の「自由には責任」「平等には差別」「博愛には厳罰」 という反対概念の責任が伴うことの意味を、噛みしめなければならない。
当時の日本の国民が置かれていた状況は、今の北朝鮮のように、自由・平等・博愛などは、国民の中に存在しなかった。 そんな時代での博士の言葉なのです。

2004年04月23日

日本の経営はネットワーク型

■益々お元気な坂村真民先生

詩一筋に生きてこられた坂村真民先生が、九十五歳の誕生日を迎えた一月、毎月発刊してきた「詞国」を、二月一日の五百号をもって完遂することにした。
「詞国」は、教育者・森信三先生の強い勧めで号を重ね、その間、死ぬような病気もしたが、四十年間一回も休まず刊行し続けた月刊詞誌です。

三月には、「鳩寿」 と改名して新たに一号が出た。四月に二号が刊行された。
「もうこれでいいい」ということはなく、又新たな門出をされた先生の一道精進の人生には、只々敬服するばかりです。いつまでも長生きをされ、 号を重ねられんことを祈ってやみません。

真民先生は、「鳩寿」第一号を発刊するに当たり、自らの「遺言」を表明された。
・一つ「葬式はしない」 
・二つ「香典、供物など一切頂かない」
・三つ「妻のこと、戒名のこと」
    妻は私より長く生きると思う。普通の方と同じく葬式をしてもいいでしょう。
    私の戒名  詩国院蒲公英朴真民
    妻の戒名  徳光院愛真華久代



 

 

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第28号】             ~日本人のアイデンティティー~ 
「日本の経営はネットワーク型」

以下、経済アナリスト 藤原直哉「大阪藤原塾」からの抜粋です。

今の日本で、アメリカ型の経営で成功している企業は少ないようです。 アメリカ型の企業とは、市場原理を大事にする企業のことをいいます。
ここ数年成長著しい企業は、何れも非アメリカ型の企業です。非アメリカ型の企業は、目先の業績よりも、中・ 長期的目標を大事にし、人を大事にします。日本の企業は、体質的にアメリカ型経営はなじまないようです。

過去、日本に持ち込まれたアメリカ型経営で、典型的なものに、デストリビューターに始まって、 スーパーバイザーにまで何段階かのクラスを、マルチ販売手法でのし上がっていくやり方があります。何れも、 一時期急速に組織が拡大し、巨大な売上の集団になるが、4~5年もすると組織が崩れて消滅していく。

実力のあるものが組織のトップにのし上っていく。成績が良ければ良いほど、 世の中の平均月収の何倍もの報酬を手にする。こつこつ荒地を開墾して種を撒き、苗を育てて実りを待つ、 そんな農耕型ではなく、まだ人が入っていない山に分け入り、鹿や猪を獲ってくる。そんな狩人型商法が、 アメリカ商法の典型なのです。
そんな商法が、商品流通の世界に、波が押し寄せてくるように、繰り返しやってきて、泡のように消えていった。 どうも日本人にはなじめません。肌に合わないのです。
アメリカ人が経営改善のため、日本企業のトップに座ったとき、真っ先に行うのが首切りです。日本人がトップでは、 なかなか首が切れない。外資系の会社で、
トップが日本人からアメリカ人に代わったら、それは首切りを断行することに他なりません。
その一方、フランスとかイタリアなどのヨーロッパ系の企業は、ブティックやファッション関連を中心に、 銀座や表参道で地道に努力を重ね、成功している。日本の企業は、アメリカ型よりもヨーロッパ型が肌に合うようです。

日本の企業が、アメリカ型経営手法を丸ごと真似ても、 うまくいかないということです。アメリカで効く薬でも、日本人に合わない薬もあるのです。
米国とイギリスは「市場原理型資本主義」です。ドイツの資本主義は「国家統制型」です。 日本はこの何れでもない。日本の資本主義は「ネットワーク型」です。

ネットワーク型とは、知り合いの輪のことです。連帯保証人システムなどは、その代表といえます。 国家や経済の後ろ盾に頼らず、互いに人間関係の信頼で結びつき、助け合っていくシステムです。 古い言い方をすれば「御用達型資本主義」ということになるでしょう。
バブル崩壊の後、米国企業の様々な経営成功例、経営手法を日本の企業は真似てやってみた。が、行き着くところ、 日本人にはネットワーク型が一番ふさわしいことが、ようやくわかってきたようです。

企業にとってのネットワークには、地縁、血縁、学閥、元請下請けのつながり、同業者仲間、組合などがあります。 ところが、近年の ITの急速な普及により、そういった従来型のネツトワークが崩れ始め、 インターネットによる新しいネットワークの輪が広がってきているのです。

つまるところ、日本人には「みんな仲良く助け合い」の経営が、一番肌に合っているようです。

 

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2004年04月27日

懐かしき昭和

■「世界本の日」

先週の金曜日、4月23日は「世界 本の日」 。1995年にユネスコ総会で認知されたが、知っている人は少ないようです。
”本の日”の由来は、「スペインのカタロニア地方は、この日が聖人のお祭り日。
男性は女性に赤いバラ、女性は男性に”本”を贈る習慣があることから…」という。

普段、どんな本を読み親しんでいるかで、「お前がどんな人間かわかる」という、「本の日」のことを書いていた、中日春秋の末尾の言葉には” ドキリ”とした。

日曜日はお天気が良かったので、鶴来の白山ひめ神社へ。孫の健やかな成長を願って、息子夫婦とお参りに行った。 ついでに向かいの「樹林公園」を散策した。八重桜が満開で、つつじの花もほころび始め、 公園中若葉が芽吹き、何とも清々しい。連休はつつじも満開になるでしょう。お薦めのリフレッシュ穴場です!

【心と体の健康情報 - 143】
~歴史から学ぶ~
「懐かしき昭和」

私が生まれ育ったのは金沢の繁華街香林坊。現在の入江に引っ越してくるまで、47年間住んでいた。私の家の左隣が” 第一勧業銀行金沢支店”(現みずほ銀行)、右隣が”石川銀行本店”でした。

両銀行とも、私が中学の頃、昭和三十年初頭に新築し、現在に至っている。
しかし、それも今はもう無い。みずほ銀行と合併した第一勧業銀行は、重複店解消のため売却されることになった。 一方の石川銀行は、2001年12月に破たんし、既に人手に渡っている。

子どもの頃140世帯あった町会は、再開発を繰り返すたびに、東急109、大和デパート、生命保険会社などに取って代わり、 私が引っ越す時、わずか4世帯になって、山間の過疎地のようになってしまった。街はにぎわっているのに、 付き合う隣人もなく、人が住む町ではなくなっていた。

ところで今、全国的な昭和ブーム。東京の「台場一丁目商店街」、大阪の「なにわ食いしんぼ横丁」などが評判になっている。
大分県の豊後高田市の商店街が、空き店舗六店と、隣に並ぶ既存店八店舗を、「昭和の町」 と名づけて、昭和三十年代の看板や装飾を施して外観を統一し、店の奥に眠っていた当時の看板や、 商売道具を店先に展示したりして、「昭和の町」の雰囲気づくりに心を砕いた。それが評判となって、 多い日には四十台の観光バスが訪れる商店街に生まれ変った。

 ◆豊後高田市 昭和の町オフィシャルページ

平成不況が長く続き、将来が不透明で混沌としている。昭和三十年代から四十年代にかけて、日本が急成長していた頃が、 とりわけ懐かしく思われる。そんな年代が、日本の総人口の六割近くを占めている。
一方若い世代も、自分たちが生まれる前の昭和に興味があるようで、服飾のデザインや家具、 音楽などに回帰ブームが見られるという。

近くでは、福井県立歴史博物館の「昭和のくらしコーナー」が、当時の駄菓子屋、本屋、食堂などの商店街を再現し、自動車、 家電製品、家庭雑貨、食品などの生活日用品を当時のままに展示していて、昭和の雰囲気が楽しめる。
旧美大校舎の石川県歴史博物館も、明治・大正・昭和の金沢の暮らしを回顧することができる。
私が通っていた長町小学校は廃校となり、武家屋敷に取り込まれて、江戸時代の町家が移築されている。 又私が通っていた紫錦台中学の本館校舎は、元金沢第二中学のおもかげを残す金沢市の保存建築物。 金沢の民俗文化財の展示館になっている。この連休はご家族を伴って、金沢の昔を再発見しに歩くのもいいかも…。

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