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靖国神社参拝-2

●富山大空襲

「戦争体験を語り継ぐ人が年々少なくなっていく」という話を、富山市で建設会社を経営しているS氏に話したところ、何と、社長自身が 「幼い時に富山で空襲に合い、九死に一生を得た。運命の加護がなければ、自分は死んでいた」と言うのです。

空襲警報が鳴って、いつものように防空壕に母親と一緒に入った。顔なじみのご近所の人が十数人非難していた。ズズ~ン、 ズズ~ンと焼夷弾が炸裂する音が迫ってくる。みんな寄りそい、肩を寄せ合って身を縮めていたところ、自警団の人が頭上から、 「こんな所に居ると、焼け死んじゃうぞ!」と叫んだ。
母親は私を抱えて防空壕を飛び出した。自警団の誘導に従い、火の粉が舞い、家が焼ける中を必死に逃れた。

もしあの時、あの一言がなかったら、間違いなく全員焼け死んでいたという。
そのとき、逃げる方向を間違えて焼け死んだ人も沢山いたという。
「運が良かったとしか言いようがない」と、後になって母親が語っていたそうです。

私が疎開先から見ていた空襲。同じ時刻に、空襲の真下で生死の淵をさまよっていた。そのS氏と60年近く経った今、 昔の思い出を語っているのです。

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第17号】
~歴史から学ぶ~
「靖国神社参拝 2」

城山三郎の代表作「落日燃ゆ」を読んだ。主人公の広田広毅は、 外務省の官僚。省内では、吉田茂と同期である。ニ・ニ六事件の後首相になり、その後外相も務めた。
広田広毅は、戦争回避に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑された、ただ一人の文人なのです。
東京裁判の間、自らの戦争責任に一切自己弁護せず、他人のせいにしたりすることもなく、粛々と判決に従った。 武士道精神を持った、まれに見る人格者だったのです。判決が出されたとき、首席検事をして「何とバカげた判決か」 と歎かせたという。
広田の妻は、夫の覚悟を察知し、夫の未練を少しでも軽くしたいという思いから、裁判中に自害している。
近代日本が転落していく中、何とか食い止めようと苦闘し、死んでいった外交官僚がいたことを、私達は知らなければならない。
この時代、すべての国民が自分の意思がどうであれ、歴史の運命に翻弄された。広田広毅も戦争犠牲者の一人だったのです。

戦争体験を語り継ぐ人が年々少なくなっていく。二月四日、北国新聞の朝刊を開いたら、戦中・戦後の激動期の十年間、 必死に家族を守ろうとした金沢の主婦の奮戦記が出版されることになったと、 社会面の三分の一を占める大きな記事で特集していた。

私は、太平洋戦争勃発の年の十月生まれ。疎開先で見た富山の空襲が、脳裏に焼きついている。 私の頭上を何十機ものB29が通り過ぎ、医王山が焼夷弾で真っ赤に浮かび上がったのを忘れない。

戦後、満州から叔父さん家族が引き揚げてきて、家に何年か居候したことも、古い昔の記憶です。イナゴも食った。 幼稚園の弁当は配給の小麦を、ふくらし粉でふくらまし、パンにしたものでした。中学1年まで芋粥が主食で、冬のおやつは、 芋を輪切りにして、炭火で焼いて食べた。芋で育った世代です。
そうやって、戦中・戦後の厳しい生活の中で、少年時代を過ごしたのです。

戦争を体験し、戦争の悲惨さを語り継ぐ、私の親の世代の語り部が、年を追うごとに少なくなっていく。 今の平和で豊かな日本は、父母や祖父母など、つい最近まで生活を共にしてきた先人たちの、 言葉では伝えきれない辛い人生体験と苦労の積み重ねの中から、もたらされたものであることを、忘れてはならないのです。
神戸の震災を体験したものでなければ、本当の震災の恐ろしさを語り伝えることが出来ないでしょう。大東亜戦争の末期は、 神戸の震災が日本中を襲ったようなものです。そのときに犠牲となった人たちのことを、私達は忘れてはならないのです。

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