« 2004年01月 | メイン | 2004年03月 »

2004年02月 アーカイブ

2004年02月03日

熟年離婚は妻の復讐-2

■劇団四季「マンマ・ミーア」

先週東京で、劇団四季のミュージカル 「マンマ・ミーア! 」を鑑賞しました。
1999年の春、ロンドンで開演してからヨーロッパ、アメリカで公演が続き、世界の観客動員数が1000万人を突破し、 記録更新中のミュージカルです。

東京公演も初演以来一年を経過し、今年の8月までの前売りで、夜の席はすべて残りわずかという人気である。
ヒットの秘密は、1970年代を席巻したABBAの ヒット曲を22曲も一つの物語に組み込んだことと、ストーリーと歌の、 みごとなマッチングにあるようです。

芝居が終わった後のカーテンコールでは、舞台で演ずる劇団員と、観客が一体となって盛り上がり、見ている私達を引き込んでいく。 観客層は二十代の女性が圧倒的に多く、おじさま族の私が観客の中に溶け込むには、少し時間がかかりました。

感想を言うと、同じように女性(但し三十代以上)に人気がある、ニューハーフのショウを、六本木の劇場で笑いながら見ている方が、 私には向いているようです。
私がおじさまであることを実感した日でした。

【心と体の健康情報 - 131】
~男の言い分、女の言い分~
「熟年離婚は妻の復讐(2)」

TV朝日放送、土曜の夜九時からの「それからの日々」は、久々に現代社会を掘り下げた、 重みのあるドラマだった。十時から後半の半分だけしか見なかったが、なんともやるせないホームドラマだった。

チャンネルを回したら、奥さんが、ご主人の父親に「離婚」を決意したことを告白
しているところだった。
ご主人(松本幸四郎)は某社の部長だったが、派閥争いに敗れて解雇され失業中。家族は、二十歳も年上の男性に不倫して、 誰にも言えず悩んでいる娘と、フリーターで定職に就かず、現実味の薄い夢を抱いている息子。
そして、フラワーアーチストとしての才能が認められ、個展を開くまでになった奥さん(竹下景子)。四人家族である。
今の時代背景と家庭ゆがみを、みごとにドラマ化した山田太一の脚本演出。
見ごたえがあり、いろいろ考えさられる内容だった。

<印象に残ったセリフ>
・奥さん
「あなたは、ちっとも私のことをわかろうとしない。私は、家族にとって何なの? 
もう犠牲になるのはまっぴらよ!好きなことをさせてほしい。自由になりたい!」
「縦てのものを横にもしようともせず、毎日家でぶらぶら。家事の一つくらい手伝ったらどうなの!」
・ご主人
「離婚したいって? 一体何が不満なんだ? 私は浮気一つするでなし、家族のために身を粉にして働いてきた。 住宅ローンも払い終わったし、何不自由のない暮らしをさせてきたじゃないか! 一体私の何がいけないというのか?  
私がどんな悪いことをしたというのか?」

次回で、半年続いた「男と女シリーズ」を終えます。このシリーズを読み返せば、このドラマの家庭の何が問題なのか?  どうすれば、夫婦の絆が回復するのか?おのずから答えが見えてくるように思うのですが? 

この夫婦間には、二人で何でも話し合い、支えあう絆ようなものがない。夫は妻のことを何も知らないし、 妻は夫が会社でどんな苦労をして、命をすり減らしてきたか知らない。妻は自分の立場からしかモノを見ようとしないし、夫も、 妻のお陰で仕事に打ち込むことができたことに気づかず、妻にいたわりの言葉一つかけたことがない。

2004年02月06日

靖国神社参拝-2

●富山大空襲

「戦争体験を語り継ぐ人が年々少なくなっていく」という話を、富山市で建設会社を経営しているS氏に話したところ、何と、社長自身が 「幼い時に富山で空襲に合い、九死に一生を得た。運命の加護がなければ、自分は死んでいた」と言うのです。

空襲警報が鳴って、いつものように防空壕に母親と一緒に入った。顔なじみのご近所の人が十数人非難していた。ズズ~ン、 ズズ~ンと焼夷弾が炸裂する音が迫ってくる。みんな寄りそい、肩を寄せ合って身を縮めていたところ、自警団の人が頭上から、 「こんな所に居ると、焼け死んじゃうぞ!」と叫んだ。
母親は私を抱えて防空壕を飛び出した。自警団の誘導に従い、火の粉が舞い、家が焼ける中を必死に逃れた。

もしあの時、あの一言がなかったら、間違いなく全員焼け死んでいたという。
そのとき、逃げる方向を間違えて焼け死んだ人も沢山いたという。
「運が良かったとしか言いようがない」と、後になって母親が語っていたそうです。

私が疎開先から見ていた空襲。同じ時刻に、空襲の真下で生死の淵をさまよっていた。そのS氏と60年近く経った今、 昔の思い出を語っているのです。

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第17号】
~歴史から学ぶ~
「靖国神社参拝 2」

城山三郎の代表作「落日燃ゆ」を読んだ。主人公の広田広毅は、 外務省の官僚。省内では、吉田茂と同期である。ニ・ニ六事件の後首相になり、その後外相も務めた。
広田広毅は、戦争回避に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑された、ただ一人の文人なのです。
東京裁判の間、自らの戦争責任に一切自己弁護せず、他人のせいにしたりすることもなく、粛々と判決に従った。 武士道精神を持った、まれに見る人格者だったのです。判決が出されたとき、首席検事をして「何とバカげた判決か」 と歎かせたという。
広田の妻は、夫の覚悟を察知し、夫の未練を少しでも軽くしたいという思いから、裁判中に自害している。
近代日本が転落していく中、何とか食い止めようと苦闘し、死んでいった外交官僚がいたことを、私達は知らなければならない。
この時代、すべての国民が自分の意思がどうであれ、歴史の運命に翻弄された。広田広毅も戦争犠牲者の一人だったのです。

戦争体験を語り継ぐ人が年々少なくなっていく。二月四日、北国新聞の朝刊を開いたら、戦中・戦後の激動期の十年間、 必死に家族を守ろうとした金沢の主婦の奮戦記が出版されることになったと、 社会面の三分の一を占める大きな記事で特集していた。

私は、太平洋戦争勃発の年の十月生まれ。疎開先で見た富山の空襲が、脳裏に焼きついている。 私の頭上を何十機ものB29が通り過ぎ、医王山が焼夷弾で真っ赤に浮かび上がったのを忘れない。

戦後、満州から叔父さん家族が引き揚げてきて、家に何年か居候したことも、古い昔の記憶です。イナゴも食った。 幼稚園の弁当は配給の小麦を、ふくらし粉でふくらまし、パンにしたものでした。中学1年まで芋粥が主食で、冬のおやつは、 芋を輪切りにして、炭火で焼いて食べた。芋で育った世代です。
そうやって、戦中・戦後の厳しい生活の中で、少年時代を過ごしたのです。

戦争を体験し、戦争の悲惨さを語り継ぐ、私の親の世代の語り部が、年を追うごとに少なくなっていく。 今の平和で豊かな日本は、父母や祖父母など、つい最近まで生活を共にしてきた先人たちの、 言葉では伝えきれない辛い人生体験と苦労の積み重ねの中から、もたらされたものであることを、忘れてはならないのです。
神戸の震災を体験したものでなければ、本当の震災の恐ろしさを語り伝えることが出来ないでしょう。大東亜戦争の末期は、 神戸の震災が日本中を襲ったようなものです。そのときに犠牲となった人たちのことを、私達は忘れてはならないのです。

2004年02月10日

主婦の孤独を分ってほしい

【心と体の健康情報 - 132】
~男の言い分、女の言い分~
「主婦の孤独をわかってほしい」

以下、婦人公論の「主婦の孤独をわかってほしい」の特集記事をもとに、妻が結婚して、 その後私と一緒に化粧品の販売に携わるまでの、専業主婦時代の約10年間の心理状態を、妻の立場に立って書いてみました。

私(妻)が結婚したのは昭和42年、20歳のとき。女学校を出て一年、 19歳のときにお見合いをして今の主人と結婚した。その時代の女性は、結婚、そして専業主婦になることが、 女性の歩む人生すごろくの”上がり”であった。
高校を出て、どこかに就職する。それも結婚までの腰掛。本人も、受け入れる会社も、結婚すれば辞めるものと決めていた。

結婚は女の幸せ。そう信じて結婚した。なのに何か満たされない。可愛い二人の子ども、夫とやさしい義父母、 そして小姑との生活は、それなりに平和で、充実していたはず…  なのに私は満たされない。

夫は仕事で家を留守にしがち。朝は7時に出社して、夜10時頃帰宅する。
ことあるごとに出張だ、飲み会だ、付き合いだと、家を留守にする毎日。夫不在で残された私(妻)は、 自分自身のためではなく、家族を最優先する主婦の暮らし。
孤独感に襲われる。私は、家族や年寄りの世話をするためにお嫁にきたのだろうか? そうではない… 「結婚って何だろう」 と、つい考えてしまう。

光が当たる世界で伸び伸びしている夫。私は奥さんという名のもとに、社会から隔離された家の中で、炊事、洗濯、掃除、 年寄り夫婦の世話と、家を守っていればそれでいい。
誰に認められることもなく、毎日朝、昼、晩、変わり映えのしない時間が過ぎていく。そこそこ料理が上手で、 家事をつつがなく切り回し、子育てしていればそれでいい。
それで私(妻)はどうなるの? そんな焦りが湧いてくる。満たされる答えも見えないまま、 誰にもかえりみられないまま年老いていく…。そんな孤独感に襲われる。したいことがいっぱいあったのに、 今はそれも薄れていく。

自分にできることは何だろうか? 何かしたくてパートに出た。夫は言った。
「年寄りもいることだし、家事に支障をきたさない範囲にしろよ!」。
何かに本気になろうにも、しょせんは、主婦の片手間仕事としか見てもらえない。

さて妻の話はここまでにして、子育てにも参加せず、ほとんど家にいない会社どっぷり人間の私(夫)。 毎日仕事仕事で出かけてばかり。夜も仕事。仕事のつき合いで飲みに行く。たまの休みも付き合いマージャン。子どもたちと、 夜一緒に食事をすることもなく、子育てを手伝ったことも、運動会や授業参観に行った記憶もない。

こんな生き方人生を続けることに嫌気がさしていた。そして脱サラした。失われた十年を取り戻そうと、 それまでお世話になった勤め先と管理職の地位、年収一千万円の安定した収入を捨てて…。
妻と一緒に、家族の顔を見ながらやれる仕事、化粧品の商売をゼロから立ち上げた。
あれから25年、今では会社の中心的存在となり、活き活きと仕事をしている妻。
その妻を見ていると、この仕事にめぐり合えたことの「ご縁」と「運」に、感謝せずにはいられない。「神様、仏様、 ご先祖さま、ありがとうございます」

2004年02月13日

与えられた環境に順応する能力

■明日14日はバレンタインデー。
この日にチヨコレートを送る習慣は、1960年ごろに始まり、70年代にかけて急速に広まったという。こういった風習は、 12月24日のクリスマスにケーキを買って来て、家族そろって食べるのと同様、戦後新しく芽生えた庶民の文化である。

日本の庶民はこういった外来文化を、商業ベースに乗せられていると知りながら、日常生活の中になんなく取り込んでしまう。 現在の先進日本のエネルギー元は、こういった異国文化を取り込むことへの寛容性にあるようです。

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第18号】
~日本人のアイデンティティー~
「与えられた環境に順応する能力」

毎日報道されるイラクの状況は、今から六十年前に戦争に破れ、アメリカから進駐軍が乗り込んできて、統治と治安、 改革に取り組んだ、当時の日本と何ら変わりがないように思える。
終戦のどん底状態の庶民の生活を救ってくれたのは、戦勝国アメリカからの援助物資だったと思う。食料品、衣料品、 医薬品などが配られた。

我が家にも、缶詰や乾パン、小麦粉などが配られたことを記憶している。 直径20cmはあろうかという大きなピーナツバターの缶詰や、乾燥貝柱。あの舌にとろけるような美味しさは、 決して忘れたりはしない。

戦時中は、あれほど鬼畜米英と、竹やりを突く訓練をしていた日本人が、敗戦となり、 にっくきアメリカ人に反抗するかと思いきや、わずかの期間にそんな罪悪感など跡形もなく消えてしまった。
進駐軍の兵隊さんが、子ども達にチューインガムやチョコレートをくれるというので、ジープの後を、子ども達が追っていく。

環境の変化に合わせて、丸にでも四角にでも順応する日本人。過ぎ去った過去に引きずられることもなく、現状を受け入れ、 なんなく取り込んでしまう能力は、日本人にしかないアイデンティティーでしょうか。
真珠湾や、南京事件をいつまでも忘れようとしないアメリカや、中国の人。このしつこさを思うと、 過去のわだかまりを直ぐ忘れてしまう日本人。何と淡泊なことか。
日本人のあきらめの早さは、士農工商、江戸三百年の歴史の中で培われたものだろうか? NHKの「新撰組」で、 母親が養子の”勇”に向かって、「武士になろうなどと思うな! 百姓の子は生涯百姓。武士になったつもりでも、 百姓からは逃れられない」と…。

農耕で生きてきた日本人は、日照りや冷害、台風や洪水、地震など、突然襲ってくる天変地変で、 それまで積み上げてきた苦労が、一夜で崩れ去ってしまうことがしょっ中。怒りをぶつけるところなどどこにもない。狭い国土、 土地を離れて他所へ移り住むこともままならない。農民であることから逃れることはできない。 悲しみにくれていても仕方がない。現実に起きてしまったことは仕方がない。又、 一からもくもくと体を動かしてやり直すしかない!

オイルショック、円高、自由化と、戦後何度も訪れた経済危機。阪神大地震で破壊された神戸。 襲ってくる危機をその都度切り抜け、生き抜いてきた日本人。
最大の危機、平成不況も、過去に引きずられず、今をしっかり見つめ、生きている。
日本人が持つアイデンティティーが、困難に立ち向かうエネルギーになっている。

2004年02月17日

食い違う結婚後の理想像

■オムロン創始者 立石一真氏の言葉

人は誰しも幸せになりたいと思っている。幸せになるには、三つの方法がある。
(1) 自分の力で幸せをつかむ  
(2) 他人の力を借りて幸せになる
(3) 人を手助けし、そのことがめぐりめぐって幸せになる

この三つの方法の中で、幸せ冥利につきるのが、三つ目の方法でしょう。
相手を幸せにして、自分も幸せになる。なんて素晴らしいんでしょう…。

【心と体の健康情報 - 133】
~男の言い分、女の言い分~
「くい違う結婚後の理想像」

結婚前と結婚した後では、態度がぜんぜん違うというケースが、日本の男性に多く見られる。結婚前には 「子どもは二人で育てよう。家庭も二人で作っていこう」と話していたのに…。なのに、いざ結婚したら、そんなの大ウソ。

日本の男性は結婚すると、「釣った魚に餌をやるな…」と人前で平然とうそぶく。
妻はもう恋人ではなく、子どものお母さんで、一家の主婦で、もう女とは思わなくなる。だから外の女に平気で色目を使う。

「君は主婦なんだから、子育ても、家事も一切まかせるよ。僕は外で仕事をするから」って。えっ? それは話が違うじゃない。 子どもはいったい誰が作ったんでしょう。どうして私一人で育てなきゃいけないの?  結婚前にちゃんと約束したはずじゃない!
女性は独身時代、好きな人と結婚して、いつまでもラブラブに、一緒に幸せな家庭を築いていくことを夢見る。 子育ても家事も50:50で、何でも話し合い、相談し合える夫婦像を想い描く。

日本の男は亭主関白。「女は、結婚したら家に中にいるべき。亭主が帰ってきたら、お風呂が沸いていて、 暖かい夕飯が待っている」。そんな一昔前の父親から受け継いだような家庭像を、結婚後の理想像として想い描いている。

だから、家の中のことはな~んにもしない。すべて女の仕事だと思っているから。
自分の服がどこに入っているかわからない。何か改たまったことがある時など大変! あのスーツはどこ、Yシャツは、 靴下はと、ぜーんぶ妻まかせ。大きな子どもをもう一人抱えているようなものだ。

仕事だって、結婚する前は、「なんでも私の好きなことをやっていい、君の仕事を応援する」て、言っていたのに、なのに、 結婚したら、仕事なんて絶対ダメって…。
家の外へ出るのを認めようとしない。
男って、奥さんも欲しいし、子どもも欲しい。妻にはあれはダメ、これはダメと言っておきながら、 自分は自由きままにしていたい。そんなの勝手よ!

結婚はゴールじゃなくてスタート。そこから二人で作っていくものなのに、日本の男は、結婚したから、 さあ外で気楽に遊ぼうと考える。

友達を呼んでバーベキュー。「夫婦で一緒にっ」ていうのが一番楽しいよね!
なのに、日本の夫婦ってヘンよね。一番一緒にいたい人だから結婚するのに、いざ結婚すると、 夫だけが一人でどこかに遊びに行ってしまう。夫の帰りを待つだけの私って、つまんない。こんなんじゃ、 結婚した意味なんてないじゃない。

婦人公論「主婦の孤独をわかってほしい」
タレント カイヤの手記より抜粋

2004年02月20日

外交下手の日本人

この2月の休日はすべてスキー漬け。
肉体年齢はまだ四十台後半くらいかな?
急斜面でのスピードとスリル感がたまらない。
筋肉痛もなく、たっぷり滑降を楽しんでいます。
明日からの二日間は野沢温泉スキー場。温泉につかって楽しんできます。

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第19号】
~日本人のアイデンティティー~
「外交下手の日本人」

小泉首相は、二月十日の予算委員会で、靖国神社の参拝について、「日本には死者にまでむち打つ感情はない。 よその国の干渉は受けぬ」ときっぱり言い切った。ここまではっきり意思表示した首相は始めてだろう。
中国や韓国からの抗議にへっぴり腰だった日本。北朝鮮の拉致問題への政府の対応は、いっこうに進展しない。いずれも、 国民は腹立たしく、じれったい思いをしている。

国際社会における利害関係は、益々複雑になりつつある。日本は外交にもっと力を入れなければならない。ところが、 日本は国際社会に対して、なかなか独自の立場を貫くことが出来ないでいる。
米国も外交下手と言われている。日本は国の歴史は長いけれど、鎖国が解かれてからまだ百数十年、 外交の歴史は米国より短いのです。

外交下手の原因は、諸外国に対して自国の主張を貫く、 「言葉でわかってもらうノウハウ」がまったく確立していないことにあるという。
ヨーロッパ諸国の大学入試には、一般教養に”口頭試問”がある。 「ヨーグルトの作り方は」とか、「十九世紀の馬車について」とか、何を聞かれるかわからない。

この口頭試問で試されるのは単なる知識ではなく、「言葉の運用能力」や 「反射能力」です。
知らないことであれ、不得意なことであれ、何を聞かれても相手にちゃんと球を返しながら、 自分のペースに引き込む力を試される。入学後はさらにその能力磨きをかけ、適正とされた人のみが、官僚や政治家、 企業のトップになっていく
のです。

おぎの・あんな(慶応大学文学部教授) 「日本の道を考える」より抜粋

”森”元首相は、早稲田の弁論部で鍛えたことで知られている。
近年日本の中学・高校で、ディベートを戦わすことが盛んになってきた。私(吉村) も一度ディベートに参加し、ディベートを戦わしたことがあるが、言葉の運用能力、反射能力を磨くには、 大変良いことだと思う。

政治家や官僚だけでなく、私自身も他人に伝わる言葉、他人が得心する話し方で、自らの意思、 考えを伝えていく能力を身につけなければならないと思う。
日本には、「黙して語らず」「以心伝心」 といった沈黙の文化があるが、それでは今の時代、 同じ日本人でも通用しないと思うのです。

2004年02月24日

夫婦関係/五つのタイプ

【心と体の健康情報 - 134】
~男と女の心理学~
「夫婦関係・五つのタイプ」

今回は、夫婦関係を五つのタイプに分類しました。
以下、キリスト教宣教師・田中信生氏「心のおしゃれの三か条」からの抜粋です。

一つは「割り算夫婦」。長年連れ添っているうちに、お互い、 相手の欠点しか見ようとせず、その欠点を突きあって、エネルギーを消耗し合っている仲の悪い夫婦。
次のタイプは「引き算夫婦」。普段はお互い我慢していて、時折「チクッ、チクッ」とやり合っている夫婦。
次に一番多いのが「ニュートラル夫婦」。喧嘩するわけでもなし、誉め合うこともない。人生の終盤に入って、 この域に到達する夫婦が多い。空気みたいな存在になっている。ゼロゼロ夫婦である。


恋愛、そして結婚の動機を心理学から見ると、大抵は自分に無いものに引かれることにあるるようです。しかし、 そのうちに不満になる。
勝気な女性は、優しくておとなしい人と一緒になろうとする。しかし、「あなた!男でしょう。しっかりしてよ!」と、 物足りなさを攻める。
たのもしく見える、強い男性と一緒になった女性は、夫のワンマンな態度に我慢できなくなるかも…

でも、不思議なことに、連れ添っているうちに、お似合いの夫婦になってくるのです。「あのご主人に、あの奥さん」なのです。 ピッタリとはまっているのです。
違う人をあてがってみても、どうもしっくりしないのです。

なるべく「足し算夫婦」になることです。お互いに相手を認め、尊重し合う。 心が通い合う夫婦です。相手の利点を見つめあい、感謝し合う夫婦です。
更には「掛け算夫婦」がいい。掛け算夫婦は、お互いに誉めあい、尊重し合い、心底惚れあっているのです。もし、 もう一度生まれ直すことができたら、同じ相手ともう一度結婚することをためらわないでしょう。

                             
自分達がこの五つのどれに該当するか、子供たちに聞いてみることです。
「なんだか怖い…」。そんなことはないでしょう。みなさん、足し算夫婦か、掛け算夫婦のどちらかですから…
でも、もし三番目までのどれかだと思うなら、簡単なことです。今から起こるすべてのことに「ありがとう、ありがとう」 と感謝し、口に出して言うようにします。
「肯定的でプラス思考」の日々の暮らし方に切り替えていくことです。その結果については、子どもたちが評価してくれます。

同じ屋根の下で、今後いつまでも添い遂げようと思うなら、「笑顔と感謝」が欠かせません。お互いに、いいものを出し合い、 誉めあい、高め合っていく。
そんな夫婦でありたいものです。そして、そんな家庭に素晴らしい子供たちが育っていくのです。 

2004年02月27日

人種差別

私は英会話が大の苦手です。
街で突然白人に呼び止められ、英語でペラペラやられたら、ドギマギして、声まで上ずってしまう。英語コンプレックスである。
日曜日の夕方、テレビでそんな番組をやっている。ほとんどの日本人は、白人から 声をかけられると、ドギマギするのです。
何を言っているのか解らない。無理に笑顔を作ってごまかそうとする。大方の日本 人が同じようなしぐさをするので、日本人が不可解に見えてくるのです。

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第20号】
~日本人のアイデンティティー~
「人種差別」

昨年12月、米国で痛ましい事件が起きた。職務質問していた黒人が暴れたため、数人の警官が警棒で、 黒人を滅多打ちになぶり殺してしまった。そんな映像が私達の茶の間に飛び込んできたのです。
黒人差別が無くなりつつあるとはいえ、白人の潜在意識の中に、黒人蔑視が根強く存在しているのでしょうか。 何かコトあるたびに、こんな痛ましい事件が報道されるのです。
そこでフッと気づいたのが、ノエビア・ワールドコンベンション全米大会に黒人が見当たらなかったことです。 肌が黒い黒人に対応した化粧品が無いと考えれば、そうかと思うのですが、もし、そうではないとしたら悲しいことです。
日本人が黒人を対等に認めていないのでは? という疑問が湧いてくるのです。

黒人男性が日本人の女性と結婚し、生まれた子ども達が日本国籍を取得した。
ところが周りは大人も子供も「ガイジン」「ハーフ」「黒こげ」などと、差別した扱いをする。
毎年一万五千人の世界の様々な国の人たちが日本国籍を取得するという。
けれども、肌色や髪の色が違っていたり、青い目だったりすると、アメリカ社会における人種差別の比ではありません。 外国人として遠巻きにし、同じ仲間には入れず、差別してしまうのです。
たとえ日本国籍を取り、日本人になっても、同じ日本人として、普通の日本人として、社会が受け入れようとはしないのです。

毎年夏に、石川県で留学生を対象に開かれるジャパンテント。ホームステーの受け入れ先で、東南アジアや、黒人が敬遠され、 アメリカやヨーロッパの白人を希望する家庭が、少なくないとのことです。

私が中学の頃、金沢の中心を流れる犀川の上流(大桑)と下流(大豆田)に、朝鮮部落があった。私のクラスにも、 朝鮮人と言われて、いじめられている女の子がいた。小学校のときからずっといじめられていたのでしょう。 誰にも相手にされず、「きたない」と言われて、おびえていたのを記憶しています。
その頃は「朝鮮、朝鮮とパカにするな!」とはやしし立て、朝鮮人を卑しみ、さげすむ風潮があったのです。

明治以降、西洋文明にあこがれ、西洋の文化・経済に一歩でも近づこうと、努力を積み重ねてきた日本。 いつから同じアジアの人達を見下し、西洋人と見ればへつらう、傲慢で卑しむべき民族になり下がったのだろうか?

タイ、韓国、中国などへ、大挙して買春ツアーに出かけていく日本の男性。近隣アジアの人たちから嫌われ、 蔑まれるような行為は、慎まなければなりません。
中国が経済大国となり、日本が清貧国になったとしよう。金持ち中国人が大挙して日本へやってきて、日本人を見下し、 札びらで頬を叩くような行為をしたとしたらどう思うでしょうか?  民族の誇りが「許せない!」と叫ぶでしょう。

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2004年02月

2004年02月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2004年01月です。

次のアーカイブは2004年03月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36