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大坂大空襲

■終戦当時の思い出
終戦当時5歳。香林坊に進駐軍がジープでやってきて、チューインガムやチョコ
レートを配った。甘味が無かった時代だけに貴重…。一日、ガムを噛んだり出し
たり、夜寝るときは秘密の場所に隠し、翌日もゴムのように硬くなったガムを、
クチャクチャ噛んだ。
終戦の翌年、聖霊病院付属幼稚園に入園した。ライザというドイツ人の若い先生
がいた。鼻が高くて美しく、優しい先生だった。今お元気なら85歳くらいだろう。
お昼のお弁当は、アルマイトの弁当箱に、配給の小麦粉に膨らし粉を入れ、パン
のように焼いて膨らませたものを、母が持たせてくれた。
 
直径20センチもある、進駐軍支給のピナツバターの大缶が配給された。口の中
で香ばしくとろけ、なんとも美味だった。鼻血が出るからと、少ししかなめさせて
もらえなかった。親の目を盗んでは、こっそりなめた…。

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 115】
~歴史から学ぶ~
「大阪大空襲」

今日3月10日は、東京が大空襲を受けた日。B-29爆撃機が三百数十機
来襲し、38万個(これは殺りくだ!)の焼夷弾を投下した。東京の3分の1、
28万戸が焼失し、一晩で9万2千人が犠牲になった。

東京空襲の三日後の3月13日。今度は大阪上空に、274機のB29爆撃機
が現れた。
以下、大阪遺族の会会長、伊賀孝子さんの「語り続ける空襲体験」より…

当時私は13歳でした。警報を聞き、家族揃って家を出、逃れようとした途端、 耳をつんざくような爆音とともに、私たちは吹き飛ばされてしまった。
死んだ…… 一瞬そう思いました。直後、足の甲に焼け付くような熱さを感じて我に返り、 燃え盛る炎の間をぬって、近くの防火水槽に飛び込みました。

肩までつかって熱さをこらえ、立ち上がった瞬間、防火水槽に女の子を浸そうとする、 隣の家のおばさん。体に火がついて「熱い!」と叫びながらに駆けてくる男の子、 全身火だるまで転がりまわる人、地獄絵さながらの光景が一斉に、目の中に飛び込んできました。

「お母ちゃん、お母ちゃん…」泣き叫ぶ私を、父が見つけ出し、 弟のいるところまで連れて行ってくれました。父は頭、顔、両手に大やけどを負っていました。
弟は、かぶっていた防空頭巾が焼け落ち、顔全体が大きく膨らんでいました。「水、水……」 そう繰り返しながら、三日後に亡くなりました。
母は、焼夷弾に胸を直撃されて、防空壕の中まで10メートル近く吹き飛ばされ、即死してしまいました。

大阪は、その後7回にわたって大空襲に遭いました。最も多い時で458機、 空はB29の機体で真っ黒に覆われるほどでした。ザザザザッと焼夷弾の雨が降ると、 轟音を発して爆弾が落ちてくる。「怖いッ!」と思わず身を縮めた瞬間、「ドカーン!」 と耳の奥がしびれるような爆発音が響きわたり、地面が揺れる。
13日の大空襲で、防空壕の多くが火事になったため、私たちは爆撃の最中、次々と立ち上がる火柱をぬって、 街の中を逃げ回りました。そこを機銃掃射で狙い撃ちされ、次々と人が倒れていきました。 環状線の中はまさに火の海、生き地獄でした。
8月14日の大空襲では、京橋駅のホームに千人近くの人が逃げ込んだ。
そこに1トン爆弾が直撃し、大惨事となった。 顔も分からないほど損傷した遺体が600体近くあったといいます。

その翌日、玉音放送が流れ、ようやく終戦を迎えました。最初に思ったことは、 あァ今夜からゆっくり寝られる…。ただそれだけでした。国が勝とうが負けようが、そんなことはもう、 どうでもよかったのです。

当時を知る人はもう数少なくなりました。いろいろなところで「空襲のお話」 をさせていただいていますが、今の平和と豊かな暮らしが、過去の多大な犠牲の上に成り立っていることを、 伝えていくことの難しさを痛感しています。

今の子どもたち。昭和20年、日本全国の主要地方都市60ケ所が空襲にさら
され、延べ45万人もの民間人が犠牲になったことを知らない。日本がアメリカ
と戦い、広島や長崎に原爆落とされたことは、学校で学び知ってはいても、
それは、歴史上の出来事であって、実感として受け止めることはない。

その原因は大人たちにある。太平洋戦争の教訓など、忘れてしまったかのよう
な今の世の中。過去の歴史を振り返り、今の生活に感謝することをしない…。
せめて年に1日、終戦当時を振り返り、質素な食事をみんなで食べて、贅沢を
慎み、感謝する日があってもいいのではないでしょうか… 

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