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二宮金次郎の偉業

■二宮尊徳翁の人生哲学

  人 生まれて学ばざれば 生まれざると同じ

  知って 行うこと能わざれば 知らざると同じ

  故に 人たるもの 必ず 学ばざるべからず

  学びを為すもの 必ず 道を知らざるべからず

  道を知るもの 必ず 行なわざるべからず

※「生き方理念」又は「座右の銘」にしておきたいような、重みのある言葉です…。

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 第79号】
~歴史から学ぶ~
「二宮金次郎の偉業」

この27~28日の二日間、静岡県掛川で、経営研究会全国大会が開催される。
大会のメインテーマは二宮金次郎。そこで、予習のつもりで、尊徳がなした
偉業をまとめてみました。

金次郎が18才のとき伯父の家を出、名主の岡部家に寄宿した。ここでは休みがもらえたので、 洪水で流された二宮家の田畑を修復し、日雇いをして貯めたお金や米を、困っている村人に無利子で貸付したりした。 それはやがて、お礼となって戻ってきた。
20才のとき、荒れた我が家の田畑の修復を終え、父の借金で失った土地の一部を買い戻し、 米二十俵と若干の資金を持つ身となって、自立した。

その後も勤勉力行、十年後には田畑四町歩を所有し、小作米百俵を得るまでになった。自らは、 商家に奉公して商いの道を学び、武家に奉公して、たしなみや家風を学んだ。この時期に”尊徳哲学” の基礎が出来上がったのです。

「積小為大」…小さなことを積み重ねて、大きな事を為していく。
「物心相関」…物が関係した貸借も、お互いの心に感謝の交流を生む
「分度と推護」…分に従って度を立てる。
  • 将来や子孫のために、多少でも余禄を残すことができるように、生活に一つの限度を立てる。
  • 人の身を我が身と思って、人に譲る。他人へのいたわり。
  • 物も金も他から奪おうとすると、自分から離れていく。
  • 与えるようにすると、自然と自分に集まってくる。

この頃、観音経に出会う。その仏の教えも結局は、人の生きる道や百姓の道を説いている、ということを悟る。
金次郎が出入りしていた、小田原藩家老服部家は禄高1200石。ところが実収は400俵で、家計は火の車。悩んだ挙句、 尊徳にお家の建て直しを依頼する。

金次郎は引き受けるに当たり、向こう五年間言うことに従ってほしいと、条件を出した。主人夫婦以下、 屋敷内全員に厳しい生活規制を課し、守らせた。
五年の後にはすべての負債を弁済し、なお三百両の蓄えを残した。

頂いた礼金百両は、すべて服部家の下男下女に分け与えた。
そうしたことが小田原藩中に伝わり、神仏の再来、聖人と噂された。
一方、五年も家庭を顧みなかったため、妻は実家に帰ってしまい、離婚。
服部家は責任を感じて、後添えを世話した。これが、後に名夫人とうたわれる”波子”である。

その実績が買われ、小田原藩が持つ茨木県の所領の窮乏を復興させるべく、三年越しで金次郎に救済を仰いだ。今度は、 服部家のようなわけにいかない。
尊徳の超人的働きと人望によって、人心を一つにまとめることに成功。幾多の難題を乗り越え、苦労の末、復興を成しとげた。

所領立て直しの評判が関東一円に広がり、今度は、幕府からのたっての依頼。
断りきれずに、日光御神領の復興に当たる。金次郎は、小田原藩から頂いた謝金五千両に、 今のお金にして十億円有余を自費拠出。更に、日光近在の農民五千余人にも、お金を無利子で貸付けたりした。
高齢にして病を押しての復興事業。その三年後に中風が悪化。事業半ばにして、七十才の生涯を閉じた。                                 

尊徳が唱えた” 報徳思想”は、死後弟子たちに受け継がれ、全国各地の報徳社設立と、 活動へと連なっていく。尊徳の教えを受けて、家政を立て直した農民大衆は幾千万にのぼるという。
尊徳思想は、政府の自治行政にも取り入れられ、戦後の農業共同組合創設へとつながっていく。

上田三三生著「日本の系譜」 より

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