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足るを知らぬ日本人、今こそ教育勅語

毎月一回京都へ出かけ、哲学者で人間学の権威安岡正篤師の教学にふれることになった。 先週その第二回目を受講した。
「四書」の中の「大學」と「論語」についても、合わせて教わることができるのがいい。     

■安岡正篤 【百朝集】五十八「六中観
死中活有り   死んだつもりで頑張れば、生きる道も見出せる
苦中楽有り   苦労のないところに楽しみはない
忙中閑有り   忙しい人の方がひまを見つけて、人生を楽しんでいる
壷中天有り   現実の世俗的生活の中に自らが創っている別天地
意中人有り   理想的人物像を心の中に持っている
腹中書有り   断片的な知識ではなく、しっかりした哲学を腹の底に納めている

安岡正篤師は、平素からこの言葉を大切にして、如何なる場合も決して絶望した
り、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないよう心がけていたという。

【心と体の健康情報-141】
~子育て心理学~
「足るを知らぬ日本人、今こそ教育勅語」


以下、政治評論家 細川隆一郎氏の「だまっちゃおれん」から一部抜粋したものです。
今、日本の国は、根本から立て直さなければならない時期に来ているようです。
一つには、国内の社会情勢の不安定さがある。少なくとも日本国家は、一人ひとりの日本人によって社会が構成され、 そこに住むゆるぎない家族の絆によつて構成されている。

しかしながら、最近のマスコミ報道によると、その家族の絆が崩壊している様を、しばしば見うける。
十年以上前であったが、東京・田園調布における事件は、衝撃的なものであった。確か十六、七歳の少年が、 父親を金属バットで殴り殺すという大事件だった。あの報道に接した日本人は、親子関係がそこまで落ちたかと、 呆然としただろう。私の子供のころには、絶対考えられなかった事件であった。

今日では、親子、夫婦、兄弟の絆はボロボロになつてしまい、日々の報道がそれを知らせている。少々の事件に対して、 今の日本人は鈍感になってしまったような気がするくらい、ひんぱんに殺傷事件が起きている。

そんな今の時代だからこそ、明治二十三年に発布された、あの懐かしい「教育勅語」が必用なのです。教育勅語の中には、 次のような人間の持つべき徳目が記されている。
「夫婦相和し、兄弟仲良く、朋友相信じ、自らは他人に対し謙虚であり、学を修め、業を習い、 もって知能を啓発し…」。これを当時、小学五年生の頃に、先生から繰り返し叩き込まれたのである。

戦後、こういった教育がまったくなされなくなり、親を親と思わず、子を子と思わない様は、日本人の精神の荒廃と堕落が、 底の底まで落ちてしまったとしか言いようがない。教育勅語に掲げてある一つひとつの徳目は、人間らしく生きていくのに、 最低身に付けなければならないことであり、人類共通のものなのです。

例えば、既に崩壊してしまったが、ソビエト連邦の”学則”に、日本の教育勅語の引用があったことを、 日本の左翼の先生方はご存知ないようです。
昭和二十年、マッカーサー占領軍総司令官は、日本の学校で教育勅語を禁止する旨、指令を出した。

日教組は大賛成。政府は無策。かくして日本人は、欲望のみに生きる、倫理感の欠如した民族になり下がってしまった。
これを直すには、”足るを知る” という精神を学ぶことにある。それによって、 少しでもモラルなき国家日本を改革しなければ、日本は国際社会の笑いもので居続けなければならない。

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