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イラク人質事件

■西田幾太郎博士

私が育った自宅から数分の所に、第四高等学校(現在の中央公園)があった。
小学生の頃、学校前の七ケ用水の生垣の穴から校庭にもぐり込んで、よく遊んだものです。
その四高に、郷土が誇る哲学者(宇ノ気出身)、西田幾太郎博士(1870~1945)がいる。 西田博士は金沢一中から四高に入学したが、在学中に義務づけられた軍事教練に反対して、退学処分になっている。 そのあと帝大を出て再び四高に戻り、やがて教授になり、後に京大で教鞭をとった人です。

■民主主義国家になる前、軍国主義が台頭していた頃の博士の言葉です。

民主主義が保障する「自由」「平等」「博愛」。 この思想を社会に実現するためには、「自由には責任」「平等には差別」「博愛には厳罰」という反対概念が、 社会に広く認知されていなければ、民主主義は単なる愚かなる民衆へと堕落していくだけ

と説いている。今の時代を見透かしているような、意味深い言葉てす。

【心と体の健康情報 - 142】
~歴史から学ぶ~
「イラク人質事件」

前にも書いたが、日本がアメリカと戦争して敗戦国となり、占領軍がやってきた。戦時中、アメリカに徹底抗戦を叫び、 竹やりでもって国民総玉砕を叫んだ軍部が、沖縄で住民を巻きこんで、悲惨な結末を迎えることになった。

ところが原爆が落とされ、主要都市が焼け野原になって終戦を迎えた本土では、 米軍に徹底抗戦し、ゲリラ戦を挑むものはいなかった。お陰で、終戦と同時にいともあっさり平和な世の中が戻ってきた。

六十年前の日本と同じく、米軍との戦いに破れ、占領されたイラク。終戦後、 旧軍隊と大量の武器は散りじりになったものの、イラク国内にそのまま温存された。その残った組織がゲリラとなり、 いたずらに米軍に攻撃を仕掛け、占領軍の殺りくを繰り返した。
こういった行為がなされなければ、この国も又、平和裏に戦後統治と、治安維持がなされ、復興、 そしてイラク人政府への禅譲が、とどこおりなく実施される筋書きになったはずである。

米軍が理由もなく、イラク人を殺りくしたりしないことは無論のことである。しかし現実は、 やられたらやり返す。意味のない憎しみだけが双方に膨らんでしまい、押さえようがない状態になってしまった。

以下”自由には責任”という観点から、4月19日(月)読売新聞「編集手帳」 を転載します。

イラク戦争開戦前の昨年二月、イラクや周辺国の日本大使館員は、日本から来た 「人間の盾」志願者に悩まされていた。空港などで「イラクは大変危険だ、退避勧告が出ている」と説得しても、 「心配無用」と無視される。米国の武力攻撃を止めたいという「善意」の日本人は百人を数えた。

空爆後も、バクダッドの変電所や浄水場には十人が残る。一方、出国支援を求めた人を、 隣国シリアの大使館員が国境まで出迎え、救出した事例もあった。
結果的に「人間の盾」で命を落とした人はいなかった。そのことに安堵しつつ、大使館員には疑問も残った。

確かに、邦人保護は外務省の仕事だ。しかし、自らの「信念」で活動する人まで保護するべきなのか?  欧米各国では「報道関係者と人間の盾は、自己責任原則だ」とし、入国した人数すら把握していなかった。
それから一年…。イラク人を助けたいという「善意」の日本人が、 大使館の目の届かないうちに危険地域に入っていた。

「善意」や「信念」は状況や相手によっては、「独善」に陥りかねない。一連の人質事件は、 改めてそれを証明している。「信念」の人には今後、強制的に規制するよりも、 自己責任を徹底させるべきだろう

今回の事件で、「イラクに自衛隊を派遣した結果起きた事件である」というふうに、 問題のすり替えをすべきではないと、新聞は一様に論説している。
無事救われたから良かったものの、もし殺されていたら、日本の世論は政府の責任を追求するのだろうか?

今一度、西田幾太郎博士の「自由には責任」「平等には差別」「博愛には厳罰」 という反対概念の責任が伴うことの意味を、噛みしめなければならない。
当時の日本の国民が置かれていた状況は、今の北朝鮮のように、自由・平等・博愛などは、国民の中に存在しなかった。 そんな時代での博士の言葉なのです。

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